透明なクジラ

長すぎてTwitterに書けないこととか。

青春は、優しいだけじゃない。痛い、だけでもない。

 

 疲れている時は往々にして新しいものを摂取する気にはなれない。そんなわけで既に見たことのあるもので、且つ気軽に見れそうなアニメとして氷菓を視聴した。原作は去年読んだけれど、アニメを見るのはおよそ五年ぶりくらいになる。それだけ時間が経っていれば見方も変わるというもので、改めて気づいたことなどをメモ程度に書き残しておく。

 


 

 以前は表題作である氷菓をめぐる物語は地味で退屈なエピソードという印象を抱いていた。しかし、「氷菓」という文集のタイトルには、過去に古典部にまつわる何かが由来しているらしいという希薄な取っ掛かりから、資料を持ち寄って各々ができる限りの推論をすることで真相に至るというのは、今になって見ると面白いものだった。先ほどは地味だと書いたけれど、地味さゆえの面白さが醸し出されている。関谷純が残した「I scream」というメッセージに誰も気が付かないことに憤る奉太郎の描写が特に良かった。後の『連峰は晴れているか』でも奉太郎が他人に繊細な配慮を見せているが、きっと頭が良すぎるから真面目に生きると他人よりも疲れてしまうのだろうなと、省エネを貫く信条の一端が窺えるように思う。

 続く『愚者のエンドロール』も、昔はなんで奉太郎があんなに怒っていたのかいまいちわからなかったものだが、アニメを見返してみると、奉太郎が思っていた以上に、入須先輩に乗せられて浮かれていたのを察することができた。最後にえるに映画の本来の結末を語るシーンは、自分を証明するためではなく、彼女のために己の能力を発揮するのが奉太郎らしいことを暗示しているようで良い。入須冬美という人間は、公人としての自分と私人としての自分を冷酷なまでに分けて考えることができてしまうのだろうと、以降のエピソードで登場する姿を見ていると痛切に感じた。奉太郎を利用したことを悪いと思っていたのは私人としての本心であるが、それが事を成すために必要ならば他人を利用することを厭わないというのも、公人としての彼女の信条であることは事実であろう。彼女のような複雑な二面性を持つキャラクターは個人的にとても好きだ。

 このまま各エピソードについて語っているときりがないので割愛するが、全体的に後味の悪い話が多かった。今までも『手作りチョコレート事件』、『ふたりの距離の概算』、『いまさら翼と言われても』などは特に後味が悪いと感じていたけど、よく見てみればどのエピソードも、万事解決しているものはない。例えば『クドリャフカの順番』は古典部という組織からしたら文集が完売して丸く収まっているが、その構成員である里志や摩耶花には遺恨が残っているし、事件の当事者であった生徒会長絡みの問題は全く解決していない。謎を解くことができても、問題を解決することはできない。そんな奉太郎にとっての限界が明瞭に立ちふさがったのが『ふたりの距離の概算』だったのだと腑に落ちた。

 気軽に見れるものだと思って選んだはずが、結果として胃を痛めるようなエピソードばかりだった。それでも『氷菓』という作品はどこか柔らかな雰囲気を持っていて、抵抗なく物語の先を望んでしまう。ここまで駄文を書き連ねてきたけれど、「青春は、優しいだけじゃない。痛い、だけでもない。」というキャッチコピーが全てを物語っているのだ。

生活の記録を残す

 

 アラームの音で目を覚ます。役目を終えた後ではうるさいだけのそれを止めるために時計に手を伸ばすと、そこには付箋が貼られていた。「生活の記録を残す」、そんなことが書いてある。いったいどういう意味だろうと寝ぼけた頭で考えるところから、今日も一日が始まる。最近はいつもこうだ。

 付箋に書いてある言葉は、簡単に言えば昨日の自分からの指令だ。わざわざそんなものに毎日従うのは、一応の理由があってのことだ。私は自分でも愚かさを痛感するほどに日々を無為に生きている。日中は何も考えずにダラダラと過ごしているが、夜になって布団にもぐった途端に、今日もいつのまにか何もしないまま終わってしまったことに気付いて猛烈な後悔に襲われるのだ。そうしてひとしきり悔やんで眠りにつき、翌朝に目覚める頃にはすっかりそんなことも忘れていて、また同じように一日を浪費する。

 まるで五億年ボタンの漫画に出てきた主人公のようだ。五億年という途方もない時間を過ごす地獄を味わい、もう二度と経験したくはないとさえ思ったのに、元の世界に戻るとその記憶は失われているから、百万円という対価としてはあまりに安い料金に惹かれてボタンを押してしまう。

 幸いにも、私は彼と違って後悔の渦中にあって、次の自分にそれを引き継がせる手段を講じることができる。五億年ボタンを押した先の世界はこの世ならざる場所だが、明日の自分が目覚める世界は今と連続しているのだから。

 そんなわけで、私はその日の夜になって思いついたことを、付箋に書いて明日の自分に残すことにした。ちなみに着想を得たのは、最近見た『メメント』という映画からだ。記憶を失うのならば、記憶があろうがなかろうが目にする場所に覚えておきたいことを書き残せばよいのだ。

 

 さて、話は戻って「生活の記録を残す」という文言の意味だが、昨日のことを段々と思い出してきた。昨夜は久しぶりに、私が昔書いた文章を目にした。インターネット上の読書管理サイトに投稿した感想を、特に理由もないが見返してみたのだ。

 何年か前に書いた文章を読んでいると、当時の自分がどんな文章を書いていたのか、どんなことを考えていたのかということが窺えて面白かった。その頃考えていたことの半分ほどは、自分の中で常識とでも呼べる程度には馴染むようになっていて、もう半分はあまり共感を抱かないものだった。文章から受ける感じは今とそれほど変わらず、この頃にはスタイルというほどのものではないが、文章の書き方が確立されていたのだとわかる。

 こうして過去を振り返ってみるのも、たまには悪くないなと感じた。しかし、そんな懐古ができたのは私がそのための材料を偶然にもインターネットの海に放流していたからだ。普段の私は、基本的に記録というものを残さないし、記憶だってほとんど忘れて生きている。だからきっと、未来の私が過去を懐かしむことを望んだ際に、記憶を呼び起こす端緒がなくて困るのではないか。その時に備えて、意識的に日々の記録を残すべきではないのか。

 そんなことを考えて、私は「生活の記録を残す」なんてメッセージを残したのだろう。

 観光地に行ったり、美味しい料理を食べる際にいちいち写真を撮る人間のことが今まで理解できなかった。別に誰かに迷惑をかけるわけでないのなら勝手にすればいいが、肉眼で見る景色の方が私にとっては美しかったし、料理はそもそも食べるものではないかと思っていた。

 だがそれは誤解だったのだ。彼らは、現在を楽しむためであったり、その時々を正確に切り取るために写真を撮るのではない。きっと、いつか見返したときに懐かしむために写真を撮っているのだろう。そうは言っても「インスタ映え」という言葉が使われるようになって久しい昨今では、写真を撮りにいくことそのものが一種の娯楽として成立しているのだろうけど。

 

 こんな文章を書いているのも、そうした懐古の種を蒔いておく活動の一環だ。

銃口を突き付けられて生きたい

 

 惰性や習慣というものを、僕はほとんどかなぐり捨てて生きてきた。

 あれはたしか5~6年くらい前のことだったと思う。当時流行っていたソシャゲをやめた際に僕は自分にそんな愚かな枷をはめてしまったのだ。最も当時はそれが自由への近道だと信じて疑わなかったわけだが、今では僕の首を絞める最たる要因になっている。当時の自分曰く、「惰性でするような行為は結局のところ偽物だから、やらない方が幾分マシ」だそうだ。なるほど随分と崇高なお題目を掲げたものだ。たしかに習慣で行う行為に本物の感情が宿ることはないだろう。人間はできることなら本心から望むことをした方が幸せになれるはずだ。その点には同意する。

 だけど人間の本物の欲求なんて、長続きするようなものではないのだ。当時の僕は今に比べると気力に満ち溢れていたのでそれに気づけなかった。今でも急激に何かしらの本を読みたくなったり、アニメやら映画を見たくなったりすることはある。けれど大抵はその準備をする段階で当初の情熱は消え去り、その願いが叶えられることはない。本屋に行って欲しかった本を買ったのに、家に帰りつくころにはまるでそれを読む気力が湧かずにそのまま何年も放置されるなんてことはザラにある。

 僕はあの時、惰性を否定するべきではなかったのだろう。情熱をいつまでも保てるというのは、あらゆる分野における天才の根幹だと思う。そして凡才である僕が彼らには及ばずともそれなりに努力を続ける手段があるとしたら、それは習慣に他ならないのだから。そんなたった一つの冴えたやり方までも捨て去った僕はひたすらに虚無的な人生を送り、何一つ積み上げてきたものを持たない人間になってしまった。

 そんな僕が望むのは、情熱の灯をいつまでも消さない才能でも、習慣的に何かを行う能力でもない。いまさらそれらが手に入るとは思えないし、手にしたところでもはやそいつは僕とは違う人間のように感じてしまうからだ。「醜いアヒルが白鳥にならずに、醜いまま幸福になるのが本当の救済だ」なんてことを僕の好きな作家も言っていた。

 だから望みはただ一つ。誰か僕に銃口を突き付けてくれ。

 

 

 『ファイト・クラブ』という映画を見たことがあるだろうか。または原作小説を読んだというのでも構わない。ともかくこの作品にはとある印象的な場面があって、小説の訳者あとがきでも言及されているほどだ。その部分を引用しよう。

僕が『ファイト・クラブ』で好きなのは、終夜営業の商店でバイトを終えた見ず知らずの青年を主人公が銃で脅すシーンだ。 主人公は青年に銃を突き付け、お前の夢は何かと訊ねる。本当は獣医になりたかった、と青年が答えると、主人公は言う。「学校に行ってがむしゃらに勉強するか、あるいは死ぬか。レイモンド・ハッセルくん、自分で選ぶんだ」。そしてもし今後、君が夢に向かってがんばっていないとわかれば確実に殺す、と宣言する。おそらくこのあと青年は長年の夢をかなえることだろう。

まあ、この記事のタイトルからして、この場面について語るのだろうなというのはおそらく察していただろうがその通りだ。僕もこの映画を見た多くの連中と同じように、このシーンが好きでたまらない。

 僕にはもう惰性も情熱も残っていない。だけど、誰かが僕に銃口を突き付けてくれたなら、お前の夢は何かと聞いてくれたら、そして僕が死の恐怖を前にしてでっちあげたそれを叶えないと殺すといってくれたなら。僕はきっと自分が何を望んでいるのかを知り、それに向かって努力することができるだろう。

 

 ところで、僕はこの曲を聴くといつも『ファイト・クラブ』のそのシーンを連想する。(動画の後半は隠しトラックだけど)

youtu.be

 

さぁ いー加減 夢を撃て
錆び付いて孤独なリボルバー

 

弾倉には一発 共犯者になってやるよ 俺が
ぼーっとしてんなよ 行け リボルバー

曲名もまんま『リボルバー』だし。モラトリアムを絶賛謳歌中の身でいながら「いつかは年老いて骨だけになってしまう」なんて悟ったような口をきく僕に容赦なく銃口を突き付けてくる歌だ。作詞した山田亮一がどのようなつもりだったかは知らない。けれど間違いなく、この曲は僕にとってのタイラー・ダーデンなのだ。そろそろ目を覚ましてお前の夢に突っ走れよと強く訴えかけてくる。

 

 僕は『リボルバー』を少なくとも週に一度はおそらく聞いているんじゃないかと思う。そしてその度に何かやらなきゃという気分になる。とは言ってもやはりこの曲を聴いて突き動かされるのは、ほんの少しの間に過ぎなくて、一度眠ってしまえばその気持ちも忘れてしまうのだけど。それでも、たとえそれが長く続かなくたって今のところ僕にとっての最適なカンフル剤なのだ。だから、週一で僕を追い立てるタイラーでとりあえずはなんとかやっていこうと思う。何よりも、僕は既にこの曲に十分すぎるほど救われていて、そんな尊い経験やそれをもたらしてくれる素晴らしい作品に可能な限り手を伸ばして、それらを大切にしていきたいというのが僕の一番の願いなのだから。

人生で初めてライブに行った話

 

 ライブハウスどころか、そもそもライブにすら行ったことがなかった。

 最近になるまで音楽をそれほど聴く人間ではなかったというのもあるし、正直映像とか見る限り自分にはあんなにはしゃぐことはできなさそうだし家で一人でCD聴いてるほうがマシじゃないかと思っていたのも大きい。

 だがここ一年くらい音楽をまあまあ聴くようになって、いつまでもそうしている訳にはいかないなと痛感した。

 本日訪れたライブ、つまり人生で初めて生で見たバンドはナンバーガールになるわけだが、このバンドは2002年に一度解散して、今日になるまで活動することはなかった。流石に俺が生まれる前より、というほど若くはないが、おそらく物心ついた頃には既に解散していたのだ。

 他にもここ一年でピンと来たバンドとして、スーパーカーハヌマーンandymoriが挙げられるが、これらも全て解散している。最近になってきのこ帝国も活動休止を発表してしまったので、ついに見ることは叶わなかった。

 好きなバンドが聴き始めた頃には既に解散しているという経験をいくつも味わって、現在活動しているバンドだっていつ急に解散するかわからないんだなと、当たり前の事実に気がついた。今のうちに見ておかなければ、後になって後悔しても遅いのだと思っていた矢先に、ナンバーガールが活動再開を発表した。

 その日に公開されたのはライジングサンロックフェスティバルに出場するという情報のみだったが、後日ツアーで日比谷野音でのライブが決定したので申し込んだ。落ちた。予想はしていたけど倍率が高すぎる。そのまた後日に今度は新宿ロフトでライブが行われることが発表されたが、キャパを調べたら日比谷野音の六分の一ほど、約500席しかないとのことだった。さすがにこれは当選しないだろうとダメ元で申し込んだら、一ヶ月後にチケットが当たったとメールが来たので死ぬほど驚いた。嬉しさよりも先に困惑が襲ってきて、ライブ当日になるまで正直まるで現実感がなかった。

 何より、ナンバガ復活を何年も心待ちにしてた人もたくさんいるのに、去年から聴き始めた程度の俺が当たってしまってなんだか引け目のようなものを感じていた。まあそうは言っても当たってしまったのだから仕方ないと自分に言い聞かせても、いつ刺されるか気が気じゃない。これは今でもだが。

 

 現実感がないとは言え、思えば俺は案外冷静に準備をしていた。まず身分証明書がなかったのでわざわざ勉強して原付の免許を取りに行った。それからメガネも度が合わないし形も歪んでいたので新調した。前日には、はじめてのライブハウスに死ぬほどビビっていたので、「ライブハウス はじめて」で検索してヒットした記事を片っ端から読んだ。当日にも迷子になる可能性と物販の列にいつ頃から並べばいいのかわからなかったので12:30には新宿駅に到着したが、15:30からの物販は30分前に並んでも余裕だったので正直やりすぎだと思う。というかチケット持ってる人しか買えないシステムだったから、どう考えても何時間も前に行く必要はなかった。

 そんなわけで荷物をライブハウス前のロッカーに入れて会場待ちと思われる列に並んだが、緊張をほぐしつつ時間を潰すために新宿を歩きまわっていた俺の足はこの時点で限界が来ていた。これライブ始まる頃には立てなくなってるんじゃないかな、という不安さえ抱いたほどだ。大人しく喫茶店で待機してればよかったと後悔したが最早どうしようもないので案内されるままに会場に入る。ちなみに入場後もライブ開始まで体感30分くらい(腕時計は外していたし、スマホも電源をすぐに切ってしまったので正確な時間はわからない)立たされて本気で死ぬかと思った。

 断続的な「本日はソールドアウト公演になります。開演時間が近づきましたら大変混み合いますので、できるだけ前にお進みください。また、ダイブやモッシュといった危険行為はすべて禁止になっております」というアナウンスを聞きながら俺は思い出した。あれはたしか高校一年生の頃だ。文化祭で学生がライブをやっているのを体育館の後ろの方でぼんやり見ていたら、いつのまにか現れていた大学生が客席を仕切りだして、サークルモッシュを始めた。なぜだか俺もそれに巻き込まれたがあれは痛いし怖いしで地獄のような体験だった。大学生なんて高校一年生の当時から見れば皆ヤンキーにしか見えないからマジで怖いんだよ。

 そんなわけでライブというのは人生のプレイングが上手い人間が行くところなんだろうなという偏見があった。ツイッターを始めてからはどうやらそれは誤解のようだと気がついたが、それでも油断はできない。今日訪れる人々も全員怖い兄ちゃんだったらどうしようと昨日まで怯えていたが、いざ会場についてみると全然そんなことはなくて少し安心した。むしろ俺みたいなメガネかけてひょろっとしてるオタクっぽい人が多くて親近感が湧く。みんな一人できてるからずっとスマホいじるか本読むかして時間潰してるし。

 

 さて、スタッフが楽器の調子を確認しはじめ、もうそろそろ始まるというアナウンスがかかったあとはひたすらの静寂だった。SEがかかってメンバーが入場してきた瞬間、俺はめちゃくちゃ驚いた。さっきまであんなに大人しそうだった客たちが、まるで暴徒と言わんばかりに暴れはじめたからだ。数秒後に我に返ってステージを見たら本当にナンバーガールが存在していて、気づけば俺もその暴動に加わっていた。

 一曲目は鉄風鋭くなって。自我とか理性とか、そういうものがいつのまにか吹き飛んでいて、ただ訳も分からないまま飛び跳ねていた。高くジャンプするたびにメンバーの顔が見えて、その度になんか泣きそうになる。あと「かぜええええええ!」って叫ぶのめちゃくちゃ気持ちいいな。

 話に聞いてはいたけど、ライブハウスの音がめちゃくちゃうるさいってのは本当だった。今まであんな爆音で音楽を聴いたことがない。せいぜいが俺の耳を気づかってスマホが忠告してくる程度まで音量を上げる程度だったが、比べものにならないほど音がデカかった。なんだよ、今まで聴いてたライブCDってライブと全然別物じゃん。未だに耳鳴りが止まないんだけど大丈夫なのかこれ。

 それから、どのサイトを見ても「どんなに普段汗をかかない人でも、絶対に汗だくになるからタオルを持っていけ」というアドバイスが載っていたが、その通りだった。いつのまにかありえない量の汗をかいていて、自分の中にそれだけの水分が入っていたことに驚いたのを覚えている。脱水症状にならないか本気で心配になったが、もう死んでもいいくらいのテンションだったのでそのうち気にならなくなった。

 ツイッターでセトリが回っていたからそれを見た人も多いと思うけど、本当に選曲が良くて息つく間もなかった。極め付きが四曲目のomoide in my head。CDで何度も聴いては痺れていた「福岡市博多区から参りました、ナンバーガールです。ドラムス、アヒトイナザワ」の声で始まる演奏に、今自分が立ち会っているのだと思うと涙が流れていて、唇は汗と混ざってめちゃくちゃ塩の味がした。イントロの勢いが最高に高まった時に客が「オイ!」って叫ぶアレを、まさか実際にできる日が来るなんて思ってなかったから本当に嬉しかった。さっきも言ったようにライブが始まる前はめちゃくちゃ大人しそうだった客が、曲が流れるや否やこんなにも盛り上がってると思うと感慨深いものがあった。それまで俺は「一体感」という言葉に眉をひそめて生きてきた。今まで「みんなで同じ行動をするというそれ自体を楽しむ」という意味でしか俺はその言葉を知らなかったからだ。だが、今日のそれは今までとはまるで違うものだった。みんな自分が思うままに勝手に動いていて、だけれどなぜか一つになっているような気がした。一体感というのはみんなで同じことをした時に感じるのではなく、それぞれに違う行動をしていても衝動に突き動かされているという一点は共通している時に感じるものなのだなと知った。かつての文化祭での経験とは違って、他人がぶつかってこようが、まるで気にならなかった。

 その直後にZEGEN VS UNDERCOVERを持ってきたり、透明少女の次に水色革命を演奏したりと、こちらの感情のキャパシティを崩壊させる気満々で、気づけば締めのIGGY POP FANCLUBの演奏が終わって、ライブは一段落ついていた。アンコールに応える一曲目は、まさかの再びomoide in my head。一度演奏したからもうやることはないだろうと、おそらくあの場にいた誰もが思っていたのではないか。心なしか、さっきよりも観客の勢いがより激しかったように思う。

 このライブで何より驚いたのが、その次の曲が初期の方のトランポリンガールだったことだ。まさか流れるとは露ほども思ってなかったので本当にビックリしたし、これ以上ないほどにテンションが上がってひたすらに飛び跳ねていた。そのままあっという間にラストのI don't knowが終わって、90分経ったというのが信じられなかった。体感では30分くらいしかない。

 

 ドリンクを受け取り地上に出るとそこはいつもの歌舞伎町の街並みが広がっていて、たくさんの人が行き交っている。きっとライブが行われていた時も同じような風景で、その下ではあんな鮮烈な演奏が繰り広げられていたと思うと、非現実的すぎてなんだか夢を見ていたような気分になった。脱水状態で呆然となりながら飲んだレモンソーダは格別に美味くて、いつもは「めちゃくちゃ汚ねえなあ」と感じていた新宿駅前の景色が今日はなんだか綺麗に見えたから不思議だ。

 

 

 

きみと、波にのれたら


 観てきました。「映画は週に一本くらいは観たい」なんてほざいてるくせに、いざ行こうと思うと毎度めんどくさがって何かしらの言い訳をつくって引きこもってばかりですが、今回は前日にTwitterで「明日観てくる」と宣言したのでちゃんと実行できました。ようやくインターネットの正しい使い方を見つけた気がする。  


 まあそんな前置きはどうでもいいのでさっさと感想を述べてしまうと、五郎さんじゃないが「そうそう、こういうのでいいんだよ」の一言に尽きる。

 これはアニメや映画に限らず、他の趣味全般にも当てはまることだが、オタクというのは得てして斬新なもの、珍しいものに惹かれがちである。

 例えば俺は趣味と言えそうなものは読書くらいしかないので、直近で読んだものを何冊か例に挙げてみよう。


 二巻にもなるのに脇道にそれてばかりで全く話が進まず、なおかつ新刊が三年以上出ていないライトノベル
 あらすじと表紙のイラストからしてコメディタッチな恋愛ものかと思ったら、重厚でシリアスなパラレルワールドものの百合小説。
 鼻行類なる存在しない架空の生物について延々と大真面目にまとめられている生物書。

 例を挙げて改めて自覚したがマジで変な本しか読んでねえな…

 ともかくオタクというのは偏屈な生き物なので、大衆受けするようなわかりやすい物語を好まない。「ベタでありきたりで観客に媚びたような物語は俺の心を満たしてくれない」と決めつけ、マイナーなもの、より正確に言えばマイナー界隈ではメジャーで評価の高いものに触れることで、『わかっている自分』に酔いたがる。少なくとも俺はそう。この文章に登場する『オタク』というワードはすべて一人称だと思って読んでもらっても全く差支えがない。


 それでは、今日見てきた『きみと、波にのれたら』がそんな偏屈なオタクの欲求を満たす奇異な作品かというと、答えはNOだ。
 むしろ、いたってベタなものだった。

 映画のあらすじは『死んだ恋人に彼氏に未練を抱いていたら、ある日その恋人が蘇る』というありがちなもので、テーマもこういう作品に往々にして見られる『死者との決別を乗り越えて新しい日々を迎える」というものだ。メインキャラクターもたったの四人に絞られていて、全体的に非常にシンプルな作りになっている。

 それなのに、めちゃくちゃ面白い。近頃観た映画のなかでも抜きんでている。まだ公開には一か月ほど控えているが、観る前から「今年観た映画ランキング」に入るであろうことがほぼ確定している『天気の子』を差し置いて今年最も好きな映画になるかもしれない。『秒速五センチメートル』に人生を歪められたと自覚しているほど新海誠に入れ込んでいる俺がそう言うまでに、この作品は見事な出来だった。(それに今年はあの野崎まどが脚本を務める『Hello,world』も上映するし、響け!ユーフォニアムの劇場版もあった。まだ足を運べていないが『プロメア』も『海獣の子供』もとても面白そうだ。かなり豊作な年ですね)

 なにより過不足がまるでないのだ。蒔いた伏線はしっかりと回収するし、余計な描写は入れない。


 登場人物が四人しかいないといったが、それゆえにしっかりと彼らのことを掘り下げ、魅力的なキャラクターに仕立て上げている。


 ひな子はあっけらかんとしながらも、将来への態度がフワフワとしていて不安定な、いかにも主人公兼ヒロインな性格だ。

 その彼氏となる港は何でも完璧にこなせてしまえて顔も性格も良い頼れるイケメンだが、じつは尋常でない努力家の側面を隠し持つ男で、俺が女だったら間違いなく惚れているし、なんなら女でなくとも惚れかけた。

 港の勤める消防署の後輩にあたる山葵は見るからにいい奴で、空回りしたり時には後ろ向きになってしまうが、それでもいつも素直に生きている姿はとても好感が持てる。

 そして港の妹である洋子だが、これがもうべらぼうに可愛い。つい毒舌になってしまい人間関係に不器用な彼女だが、心の奥底にはたしかな優しさや正義感を持っている。高校生ながら兄の死をまわりの誰よりも早く受け止めて毅然と振る舞い、いちはやく天国にいる兄のために前向きな一歩を踏み出したのも彼女だ。そして気を許したひとには垣間見せる無邪気な姿がたまらない。いわゆるツンデレキャラというやつだが、彼女の魅力はステレオタイプのそれを遥かに逸脱している。この辺はぜひ映画館に行って確かめてきてもらいたい。というかそれが言いたくてこうしてダラダラと慣れないレビューのようなものを書きなぐってるまである。

 そんな魅力的な彼らが織りなすストーリーはどこかで見たようなベタなもので、途中で展開が見えてしまうことが多々あるが、そんなことはまるで問題ではない。
 例えば、オムライスの味を知っているからと言って目の前にあるそれの味が落ちることはない。良質な食材を、熟練した技術を持つ料理人が調理したらそれはなんであれ上手いのだ。
 それと同じように、俺は「ラストはきっとこう来るんだろうなあ」と身構えていたにも関わらず、感極まって涙を流してしまった(俺の涙腺が緩いというのもあるが)。

 たった今挙げた例だったり、冒頭で『孤独のグルメ』の名言を持ち出したりと、ここまで何かと料理にこじつけてきたが、よくいわれる言葉に「シンプルな料理ほど誤魔化しがきかなくて難しい」というものがある。凝った料理を作れるかどうかよりも、卵焼きを如何に美味しく作れるかの方が、そいつの技量がよく表れるというのだ。

 俺は料理はほとんどしないといっていいので真偽は測りかねるが、少なくとも物語においては当てはまるように思う。

 変わった物語なら、その異質な部分に人々の目は向くので多少の粗は誤魔化せる。
 だけどベタなものはそうはいかない。観客が既に知っているような展開で勝負するというのは、逃げが利かないということだ。
 だから、奇を衒った物語を書くよりも、王道なものを面白く仕上げるほうがずっと難しいように思える。

 『シンプルイズベスト』とはよく言ったものだ。

 本作はまさにそれを成し遂げた作品だ。良い意味で、脚本のお手本のような映画。わかりやすいシナリオで感情移入がしやすいながらも、客に媚びたような雰囲気は一切ない。
 いつもは変わった作品ばかり嗜んでいる、偏屈なオタクにこそ見てほしい映画だと思いました。

人が少ない街が好きだ

家から数駅離れたその街に、最近気に入っている本屋がある。店内はかなり広くて、品揃えもなかなか良い。

もちろん新宿の紀伊国屋書店や、丸の内の丸善、それから最近訪れた池袋のジュンク堂ほどの規模ではないが、それでもぼくの家の近辺をあらかた探索した限りでは、そこが最も大きな書店だった。
このレベルの本屋が家の近くにあるだけでも、かなり恵まれていると思う。

そして何より素晴らしいのが、それだけの規模を誇りながらも、人がまるでいないことだ。 書店どころか、そもそも街全体に人けがない。

どうやらこれはぼくが平日にしかその街を訪れたことがないゆえのバイアスらしく、休日にはカップルや家族連れで大変賑わっているらしい。

そんな話を聞いたものだから、ぼくはその街には絶対に平日にしか訪れないようにしようとの思いを強固なものとした。だからあの街はぼくの主観や経験に基づくと、人の少ない街という烙印を永遠に押されたままなのだろう。





それはともあれ、ぼくは人の少ない街が好きだ。

田舎生まれの母を持ち、毎年夏になると都会から離れて祖父母の家に訪れていたぼくにとって、都会と田舎は、どちらが良いというものでもなく、それぞれに便利だったり不便だったりする点を抱えていて等価値だ。

きっとどちらのこともぼくはそれなりに好きだし、どちらのこともそれほど好きではない。

都会は店が多くて交通の便も良いけれど、東京という街はいかんせん人が多すぎる。

田舎は景色も空気も綺麗で、静かで落ち着く場所ではあるけれど、車を持たなければ行動範囲は狭くなってしまうし、欲しいものも通販を使わなければ手に入らなかったりする。そして人が少ないのは良いが、虫が多い。


そんなぼくにとって、人が少ない街というのは折衷案として最高のものだ。交通の便も、店の多さも、人と虫の少なさも、すべてにおいて好条件だ。

だからぼくは、歩くには少し遠い距離を無理して歩き、その街に度々訪れる。


電車に乗ればすぐに着いてしまう距離をわざわざ歩くと、文明のありがたさが身に染みて理解できる。

行きは徒歩で、帰りは電車に乗ると尚わかりやすい。

原始的な方法では途方もなく時間がかかることを、文明はあっけなく済ましてしまう。

まあ、極度の金欠からやむを得ず徒歩という手段を用いているぼくは、よほど疲れてもいない限りそんなことはしないのだけど。




ところで、冷静に考えてみると、金欠だから仕方なく歩くことへの妥当性は甚だ疑わしいものがある。

なぜなら、特にこれから先暑くなるにつれて顕著になるのだが、長い距離を歩くにはそれなりの水と食料が必要だからだ。

道の途中、自動販売機を見かけるとつい飲み物を買ってしまうし、コンビニを見つけるとホットスナックやおにぎりを買ってしまう。

多分それらの金額を合計すると電車賃と同じかそれ以上になるだろう。



数年前にも似たようなことをしていた。

その頃のぼくは、やはり金欠だからという理由で、移動をすべて自転車で済ませていた。

家から30km圏内はすべて自転車で行けるとみなし、頑なに電車に乗らなかった。

それも、ロードバイクやマウンテンバイクを持っていなかったのですべてママチャリで移動していたのだが、そんなことをすると当然、身体は水分や食料の補給を要求してくる。

それにすべて応えているとやはり電車に乗るのと同じくらいお金を使うのだが、当時のぼくはそのことに対して何となく目を背けて、相変わらず金がないという誰に向けたのかわからない言い訳を多用していた。

きっとぼくは、お金がないからとかそんな理由ではなく、単純に自転車に乗ってどこかへ行きたかっただけなのだと思う。そして今も同じように、金欠による代替手段ではなく純粋に、歩くことが好きなのだと思う。




そうわかっているのに、わざわざ自己欺瞞を繰り返し続けてるのは、本当にそれが好きなのかどうか、自分でも確信が持てないからだ。

ぼくはとても飽き性で移り気な人間だ。

この世界の何よりも大事なものだと思えたことでも、30分も経つ頃にはすっかり忘れてしまっている。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」とはよく言ったもので、結局のところぼくの好きなものはすべて、この果てしなく長い人生の退屈さから目を背けるためにあるのだと思う。

その用途さえ果たせれば対象は何でもよくて、だからぼくはこの世の大抵のものがそれなりに好きで、それほど好きではない。


まるで、さっき話した都会と田舎のように。


そんなぼくの「好き」という感情はとても不純なものだから、ぼくは自信をもって何かを好きだということができない。

それどころか、好意に限らずぼくの頭の中にあるものはすべて一貫性を持たない。昨日のぼくと今日のぼくはまるで違うことを考えていて、眠りにつくたびに全く別のデータが上書きされてるのではないかと不安になる。

哲学を学んだらそうした疑問について先人の思想を取り入れて答えが出せるのだろうかとも思うけれど、哲学書を読み切ることは、風見鶏のような意志を持つ人間にとってあまりにも困難だ。



そういうわけで、ぼくは文章を書くことを苦手としている。

書き始めた時にはたしかに切実で表現したい何かがあったはずなのに、少しでも時間をおいてしまうと最早関心を持てる話題ではなくなっていて、書いているすべてがなんだか嘘くさいものに思えてしまうのだ。

こうして「ぼく」だなんて普段は殆ど使わない一人称を用いているのも実はそんな理由からだ。

自分が書いた文章を嘘くさいと感じるなら、初めから自分に似た他の誰かが書いているものだと思えばいい。

私は前述したような欠陥のせいで、自分の人生にリアリティを感じることが困難だったが、自分に似た誰かの人生を空想して没入することはできた。

文章においても同じことをすれば多少は気楽に書けるのではないかと思い立ったのが、この記事を書きはじめたきっかけだ。



そうしてここまで書き終えてみると、なんだか普段の私が書いているのと大して変わらない文章が並んでいる。

意思に一貫性がないなんて書いたけれど、それは脳の表面を見ただけに過ぎなくて、きっと脳みそのもっと奥深くの部分は、私の意思などお構いなしに、私のようにふるまってくれるのだろう。

ともかく、こうした手法を取ると、かなり文章が書きやすいことがわかった。

きっと今までの私なら、初めの「人がいない街が好きだ」というくだりで、本当にそうだろうかと疑ってしまい、筆を折っていただろう。

初めから嘘だと割り切っていれば、嘘くさいかどうかなんてもはや関係ない。


だから、この文章も、そしてこれから先に書くかもしれない文章も、あくまで私に似た架空の誰かが書いたものだと思って話半分に読んでくれるとありがたい。