透明なクジラ

長すぎてTwitterに書けないこととか。

青春は、優しいだけじゃない。痛い、だけでもない。

 

 疲れている時は往々にして新しいものを摂取する気にはなれない。そんなわけで既に見たことのあるもので、且つ気軽に見れそうなアニメとして氷菓を視聴した。原作は去年読んだけれど、アニメを見るのはおよそ五年ぶりくらいになる。それだけ時間が経っていれば見方も変わるというもので、改めて気づいたことなどをメモ程度に書き残しておく。

 


 

 以前は表題作である氷菓をめぐる物語は地味で退屈なエピソードという印象を抱いていた。しかし、「氷菓」という文集のタイトルには、過去に古典部にまつわる何かが由来しているらしいという希薄な取っ掛かりから、資料を持ち寄って各々ができる限りの推論をすることで真相に至るというのは、今になって見ると面白いものだった。先ほどは地味だと書いたけれど、地味さゆえの面白さが醸し出されている。関谷純が残した「I scream」というメッセージに誰も気が付かないことに憤る奉太郎の描写が特に良かった。後の『連峰は晴れているか』でも奉太郎が他人に繊細な配慮を見せているが、きっと頭が良すぎるから真面目に生きると他人よりも疲れてしまうのだろうなと、省エネを貫く信条の一端が窺えるように思う。

 続く『愚者のエンドロール』も、昔はなんで奉太郎があんなに怒っていたのかいまいちわからなかったものだが、アニメを見返してみると、奉太郎が思っていた以上に、入須先輩に乗せられて浮かれていたのを察することができた。最後にえるに映画の本来の結末を語るシーンは、自分を証明するためではなく、彼女のために己の能力を発揮するのが奉太郎らしいことを暗示しているようで良い。入須冬美という人間は、公人としての自分と私人としての自分を冷酷なまでに分けて考えることができてしまうのだろうと、以降のエピソードで登場する姿を見ていると痛切に感じた。奉太郎を利用したことを悪いと思っていたのは私人としての本心であるが、それが事を成すために必要ならば他人を利用することを厭わないというのも、公人としての彼女の信条であることは事実であろう。彼女のような複雑な二面性を持つキャラクターは個人的にとても好きだ。

 このまま各エピソードについて語っているときりがないので割愛するが、全体的に後味の悪い話が多かった。今までも『手作りチョコレート事件』、『ふたりの距離の概算』、『いまさら翼と言われても』などは特に後味が悪いと感じていたけど、よく見てみればどのエピソードも、万事解決しているものはない。例えば『クドリャフカの順番』は古典部という組織からしたら文集が完売して丸く収まっているが、その構成員である里志や摩耶花には遺恨が残っているし、事件の当事者であった生徒会長絡みの問題は全く解決していない。謎を解くことができても、問題を解決することはできない。そんな奉太郎にとっての限界が明瞭に立ちふさがったのが『ふたりの距離の概算』だったのだと腑に落ちた。

 気軽に見れるものだと思って選んだはずが、結果として胃を痛めるようなエピソードばかりだった。それでも『氷菓』という作品はどこか柔らかな雰囲気を持っていて、抵抗なく物語の先を望んでしまう。ここまで駄文を書き連ねてきたけれど、「青春は、優しいだけじゃない。痛い、だけでもない。」というキャッチコピーが全てを物語っているのだ。

生活の記録を残す

 

 アラームの音で目を覚ます。役目を終えた後ではうるさいだけのそれを止めるために時計に手を伸ばすと、そこには付箋が貼られていた。「生活の記録を残す」、そんなことが書いてある。いったいどういう意味だろうと寝ぼけた頭で考えるところから、今日も一日が始まる。最近はいつもこうだ。

 付箋に書いてある言葉は、簡単に言えば昨日の自分からの指令だ。わざわざそんなものに毎日従うのは、一応の理由があってのことだ。私は自分でも愚かさを痛感するほどに日々を無為に生きている。日中は何も考えずにダラダラと過ごしているが、夜になって布団にもぐった途端に、今日もいつのまにか何もしないまま終わってしまったことに気付いて猛烈な後悔に襲われるのだ。そうしてひとしきり悔やんで眠りにつき、翌朝に目覚める頃にはすっかりそんなことも忘れていて、また同じように一日を浪費する。

 まるで五億年ボタンの漫画に出てきた主人公のようだ。五億年という途方もない時間を過ごす地獄を味わい、もう二度と経験したくはないとさえ思ったのに、元の世界に戻るとその記憶は失われているから、百万円という対価としてはあまりに安い料金に惹かれてボタンを押してしまう。

 幸いにも、私は彼と違って後悔の渦中にあって、次の自分にそれを引き継がせる手段を講じることができる。五億年ボタンを押した先の世界はこの世ならざる場所だが、明日の自分が目覚める世界は今と連続しているのだから。

 そんなわけで、私はその日の夜になって思いついたことを、付箋に書いて明日の自分に残すことにした。ちなみに着想を得たのは、最近見た『メメント』という映画からだ。記憶を失うのならば、記憶があろうがなかろうが目にする場所に覚えておきたいことを書き残せばよいのだ。

 

 さて、話は戻って「生活の記録を残す」という文言の意味だが、昨日のことを段々と思い出してきた。昨夜は久しぶりに、私が昔書いた文章を目にした。インターネット上の読書管理サイトに投稿した感想を、特に理由もないが見返してみたのだ。

 何年か前に書いた文章を読んでいると、当時の自分がどんな文章を書いていたのか、どんなことを考えていたのかということが窺えて面白かった。その頃考えていたことの半分ほどは、自分の中で常識とでも呼べる程度には馴染むようになっていて、もう半分はあまり共感を抱かないものだった。文章から受ける感じは今とそれほど変わらず、この頃にはスタイルというほどのものではないが、文章の書き方が確立されていたのだとわかる。

 こうして過去を振り返ってみるのも、たまには悪くないなと感じた。しかし、そんな懐古ができたのは私がそのための材料を偶然にもインターネットの海に放流していたからだ。普段の私は、基本的に記録というものを残さないし、記憶だってほとんど忘れて生きている。だからきっと、未来の私が過去を懐かしむことを望んだ際に、記憶を呼び起こす端緒がなくて困るのではないか。その時に備えて、意識的に日々の記録を残すべきではないのか。

 そんなことを考えて、私は「生活の記録を残す」なんてメッセージを残したのだろう。

 観光地に行ったり、美味しい料理を食べる際にいちいち写真を撮る人間のことが今まで理解できなかった。別に誰かに迷惑をかけるわけでないのなら勝手にすればいいが、肉眼で見る景色の方が私にとっては美しかったし、料理はそもそも食べるものではないかと思っていた。

 だがそれは誤解だったのだ。彼らは、現在を楽しむためであったり、その時々を正確に切り取るために写真を撮るのではない。きっと、いつか見返したときに懐かしむために写真を撮っているのだろう。そうは言っても「インスタ映え」という言葉が使われるようになって久しい昨今では、写真を撮りにいくことそのものが一種の娯楽として成立しているのだろうけど。

 

 こんな文章を書いているのも、そうした懐古の種を蒔いておく活動の一環だ。

銃口を突き付けられて生きたい

 

 惰性や習慣というものを、僕はほとんどかなぐり捨てて生きてきた。

 あれはたしか5~6年くらい前のことだったと思う。当時流行っていたソシャゲをやめた際に僕は自分にそんな愚かな枷をはめてしまったのだ。最も当時はそれが自由への近道だと信じて疑わなかったわけだが、今では僕の首を絞める最たる要因になっている。当時の自分曰く、「惰性でするような行為は結局のところ偽物だから、やらない方が幾分マシ」だそうだ。なるほど随分と崇高なお題目を掲げたものだ。たしかに習慣で行う行為に本物の感情が宿ることはないだろう。人間はできることなら本心から望むことをした方が幸せになれるはずだ。その点には同意する。

 だけど人間の本物の欲求なんて、長続きするようなものではないのだ。当時の僕は今に比べると気力に満ち溢れていたのでそれに気づけなかった。今でも急激に何かしらの本を読みたくなったり、アニメやら映画を見たくなったりすることはある。けれど大抵はその準備をする段階で当初の情熱は消え去り、その願いが叶えられることはない。本屋に行って欲しかった本を買ったのに、家に帰りつくころにはまるでそれを読む気力が湧かずにそのまま何年も放置されるなんてことはザラにある。

 僕はあの時、惰性を否定するべきではなかったのだろう。情熱をいつまでも保てるというのは、あらゆる分野における天才の根幹だと思う。そして凡才である僕が彼らには及ばずともそれなりに努力を続ける手段があるとしたら、それは習慣に他ならないのだから。そんなたった一つの冴えたやり方までも捨て去った僕はひたすらに虚無的な人生を送り、何一つ積み上げてきたものを持たない人間になってしまった。

 そんな僕が望むのは、情熱の灯をいつまでも消さない才能でも、習慣的に何かを行う能力でもない。いまさらそれらが手に入るとは思えないし、手にしたところでもはやそいつは僕とは違う人間のように感じてしまうからだ。「醜いアヒルが白鳥にならずに、醜いまま幸福になるのが本当の救済だ」なんてことを僕の好きな作家も言っていた。

 だから望みはただ一つ。誰か僕に銃口を突き付けてくれ。

 

 

 『ファイト・クラブ』という映画を見たことがあるだろうか。または原作小説を読んだというのでも構わない。ともかくこの作品にはとある印象的な場面があって、小説の訳者あとがきでも言及されているほどだ。その部分を引用しよう。

僕が『ファイト・クラブ』で好きなのは、終夜営業の商店でバイトを終えた見ず知らずの青年を主人公が銃で脅すシーンだ。 主人公は青年に銃を突き付け、お前の夢は何かと訊ねる。本当は獣医になりたかった、と青年が答えると、主人公は言う。「学校に行ってがむしゃらに勉強するか、あるいは死ぬか。レイモンド・ハッセルくん、自分で選ぶんだ」。そしてもし今後、君が夢に向かってがんばっていないとわかれば確実に殺す、と宣言する。おそらくこのあと青年は長年の夢をかなえることだろう。

まあ、この記事のタイトルからして、この場面について語るのだろうなというのはおそらく察していただろうがその通りだ。僕もこの映画を見た多くの連中と同じように、このシーンが好きでたまらない。

 僕にはもう惰性も情熱も残っていない。だけど、誰かが僕に銃口を突き付けてくれたなら、お前の夢は何かと聞いてくれたら、そして僕が死の恐怖を前にしてでっちあげたそれを叶えないと殺すといってくれたなら。僕はきっと自分が何を望んでいるのかを知り、それに向かって努力することができるだろう。

 

 ところで、僕はこの曲を聴くといつも『ファイト・クラブ』のそのシーンを連想する。(動画の後半は隠しトラックだけど)

youtu.be

 

さぁ いー加減 夢を撃て
錆び付いて孤独なリボルバー

 

弾倉には一発 共犯者になってやるよ 俺が
ぼーっとしてんなよ 行け リボルバー

曲名もまんま『リボルバー』だし。モラトリアムを絶賛謳歌中の身でいながら「いつかは年老いて骨だけになってしまう」なんて悟ったような口をきく僕に容赦なく銃口を突き付けてくる歌だ。作詞した山田亮一がどのようなつもりだったかは知らない。けれど間違いなく、この曲は僕にとってのタイラー・ダーデンなのだ。そろそろ目を覚ましてお前の夢に突っ走れよと強く訴えかけてくる。

 

 僕は『リボルバー』を少なくとも週に一度はおそらく聞いているんじゃないかと思う。そしてその度に何かやらなきゃという気分になる。とは言ってもやはりこの曲を聴いて突き動かされるのは、ほんの少しの間に過ぎなくて、一度眠ってしまえばその気持ちも忘れてしまうのだけど。それでも、たとえそれが長く続かなくたって今のところ僕にとっての最適なカンフル剤なのだ。だから、週一で僕を追い立てるタイラーでとりあえずはなんとかやっていこうと思う。何よりも、僕は既にこの曲に十分すぎるほど救われていて、そんな尊い経験やそれをもたらしてくれる素晴らしい作品に可能な限り手を伸ばして、それらを大切にしていきたいというのが僕の一番の願いなのだから。

人生で初めてライブに行った話

 

 ライブハウスどころか、そもそもライブにすら行ったことがなかった。

 最近になるまで音楽をそれほど聴く人間ではなかったというのもあるし、正直映像とか見る限り自分にはあんなにはしゃぐことはできなさそうだし家で一人でCD聴いてるほうがマシじゃないかと思っていたのも大きい。

 だがここ一年くらい音楽をまあまあ聴くようになって、いつまでもそうしている訳にはいかないなと痛感した。

 本日訪れたライブ、つまり人生で初めて生で見たバンドはナンバーガールになるわけだが、このバンドは2002年に一度解散して、今日になるまで活動することはなかった。流石に俺が生まれる前より、というほど若くはないが、おそらく物心ついた頃には既に解散していたのだ。

 他にもここ一年でピンと来たバンドとして、スーパーカーハヌマーンandymoriが挙げられるが、これらも全て解散している。最近になってきのこ帝国も活動休止を発表してしまったので、ついに見ることは叶わなかった。

 好きなバンドが聴き始めた頃には既に解散しているという経験をいくつも味わって、現在活動しているバンドだっていつ急に解散するかわからないんだなと、当たり前の事実に気がついた。今のうちに見ておかなければ、後になって後悔しても遅いのだと思っていた矢先に、ナンバーガールが活動再開を発表した。

 その日に公開されたのはライジングサンロックフェスティバルに出場するという情報のみだったが、後日ツアーで日比谷野音でのライブが決定したので申し込んだ。落ちた。予想はしていたけど倍率が高すぎる。そのまた後日に今度は新宿ロフトでライブが行われることが発表されたが、キャパを調べたら日比谷野音の六分の一ほど、約500席しかないとのことだった。さすがにこれは当選しないだろうとダメ元で申し込んだら、一ヶ月後にチケットが当たったとメールが来たので死ぬほど驚いた。嬉しさよりも先に困惑が襲ってきて、ライブ当日になるまで正直まるで現実感がなかった。

 何より、ナンバガ復活を何年も心待ちにしてた人もたくさんいるのに、去年から聴き始めた程度の俺が当たってしまってなんだか引け目のようなものを感じていた。まあそうは言っても当たってしまったのだから仕方ないと自分に言い聞かせても、いつ刺されるか気が気じゃない。これは今でもだが。

 

 現実感がないとは言え、思えば俺は案外冷静に準備をしていた。まず身分証明書がなかったのでわざわざ勉強して原付の免許を取りに行った。それからメガネも度が合わないし形も歪んでいたので新調した。前日には、はじめてのライブハウスに死ぬほどビビっていたので、「ライブハウス はじめて」で検索してヒットした記事を片っ端から読んだ。当日にも迷子になる可能性と物販の列にいつ頃から並べばいいのかわからなかったので12:30には新宿駅に到着したが、15:30からの物販は30分前に並んでも余裕だったので正直やりすぎだと思う。というかチケット持ってる人しか買えないシステムだったから、どう考えても何時間も前に行く必要はなかった。

 そんなわけで荷物をライブハウス前のロッカーに入れて会場待ちと思われる列に並んだが、緊張をほぐしつつ時間を潰すために新宿を歩きまわっていた俺の足はこの時点で限界が来ていた。これライブ始まる頃には立てなくなってるんじゃないかな、という不安さえ抱いたほどだ。大人しく喫茶店で待機してればよかったと後悔したが最早どうしようもないので案内されるままに会場に入る。ちなみに入場後もライブ開始まで体感30分くらい(腕時計は外していたし、スマホも電源をすぐに切ってしまったので正確な時間はわからない)立たされて本気で死ぬかと思った。

 断続的な「本日はソールドアウト公演になります。開演時間が近づきましたら大変混み合いますので、できるだけ前にお進みください。また、ダイブやモッシュといった危険行為はすべて禁止になっております」というアナウンスを聞きながら俺は思い出した。あれはたしか高校一年生の頃だ。文化祭で学生がライブをやっているのを体育館の後ろの方でぼんやり見ていたら、いつのまにか現れていた大学生が客席を仕切りだして、サークルモッシュを始めた。なぜだか俺もそれに巻き込まれたがあれは痛いし怖いしで地獄のような体験だった。大学生なんて高校一年生の当時から見れば皆ヤンキーにしか見えないからマジで怖いんだよ。

 そんなわけでライブというのは人生のプレイングが上手い人間が行くところなんだろうなという偏見があった。ツイッターを始めてからはどうやらそれは誤解のようだと気がついたが、それでも油断はできない。今日訪れる人々も全員怖い兄ちゃんだったらどうしようと昨日まで怯えていたが、いざ会場についてみると全然そんなことはなくて少し安心した。むしろ俺みたいなメガネかけてひょろっとしてるオタクっぽい人が多くて親近感が湧く。みんな一人できてるからずっとスマホいじるか本読むかして時間潰してるし。

 

 さて、スタッフが楽器の調子を確認しはじめ、もうそろそろ始まるというアナウンスがかかったあとはひたすらの静寂だった。SEがかかってメンバーが入場してきた瞬間、俺はめちゃくちゃ驚いた。さっきまであんなに大人しそうだった客たちが、まるで暴徒と言わんばかりに暴れはじめたからだ。数秒後に我に返ってステージを見たら本当にナンバーガールが存在していて、気づけば俺もその暴動に加わっていた。

 一曲目は鉄風鋭くなって。自我とか理性とか、そういうものがいつのまにか吹き飛んでいて、ただ訳も分からないまま飛び跳ねていた。高くジャンプするたびにメンバーの顔が見えて、その度になんか泣きそうになる。あと「かぜええええええ!」って叫ぶのめちゃくちゃ気持ちいいな。

 話に聞いてはいたけど、ライブハウスの音がめちゃくちゃうるさいってのは本当だった。今まであんな爆音で音楽を聴いたことがない。せいぜいが俺の耳を気づかってスマホが忠告してくる程度まで音量を上げる程度だったが、比べものにならないほど音がデカかった。なんだよ、今まで聴いてたライブCDってライブと全然別物じゃん。未だに耳鳴りが止まないんだけど大丈夫なのかこれ。

 それから、どのサイトを見ても「どんなに普段汗をかかない人でも、絶対に汗だくになるからタオルを持っていけ」というアドバイスが載っていたが、その通りだった。いつのまにかありえない量の汗をかいていて、自分の中にそれだけの水分が入っていたことに驚いたのを覚えている。脱水症状にならないか本気で心配になったが、もう死んでもいいくらいのテンションだったのでそのうち気にならなくなった。

 ツイッターでセトリが回っていたからそれを見た人も多いと思うけど、本当に選曲が良くて息つく間もなかった。極め付きが四曲目のomoide in my head。CDで何度も聴いては痺れていた「福岡市博多区から参りました、ナンバーガールです。ドラムス、アヒトイナザワ」の声で始まる演奏に、今自分が立ち会っているのだと思うと涙が流れていて、唇は汗と混ざってめちゃくちゃ塩の味がした。イントロの勢いが最高に高まった時に客が「オイ!」って叫ぶアレを、まさか実際にできる日が来るなんて思ってなかったから本当に嬉しかった。さっきも言ったようにライブが始まる前はめちゃくちゃ大人しそうだった客が、曲が流れるや否やこんなにも盛り上がってると思うと感慨深いものがあった。それまで俺は「一体感」という言葉に眉をひそめて生きてきた。今まで「みんなで同じ行動をするというそれ自体を楽しむ」という意味でしか俺はその言葉を知らなかったからだ。だが、今日のそれは今までとはまるで違うものだった。みんな自分が思うままに勝手に動いていて、だけれどなぜか一つになっているような気がした。一体感というのはみんなで同じことをした時に感じるのではなく、それぞれに違う行動をしていても衝動に突き動かされているという一点は共通している時に感じるものなのだなと知った。かつての文化祭での経験とは違って、他人がぶつかってこようが、まるで気にならなかった。

 その直後にZEGEN VS UNDERCOVERを持ってきたり、透明少女の次に水色革命を演奏したりと、こちらの感情のキャパシティを崩壊させる気満々で、気づけば締めのIGGY POP FANCLUBの演奏が終わって、ライブは一段落ついていた。アンコールに応える一曲目は、まさかの再びomoide in my head。一度演奏したからもうやることはないだろうと、おそらくあの場にいた誰もが思っていたのではないか。心なしか、さっきよりも観客の勢いがより激しかったように思う。

 このライブで何より驚いたのが、その次の曲が初期の方のトランポリンガールだったことだ。まさか流れるとは露ほども思ってなかったので本当にビックリしたし、これ以上ないほどにテンションが上がってひたすらに飛び跳ねていた。そのままあっという間にラストのI don't knowが終わって、90分経ったというのが信じられなかった。体感では30分くらいしかない。

 

 ドリンクを受け取り地上に出るとそこはいつもの歌舞伎町の街並みが広がっていて、たくさんの人が行き交っている。きっとライブが行われていた時も同じような風景で、その下ではあんな鮮烈な演奏が繰り広げられていたと思うと、非現実的すぎてなんだか夢を見ていたような気分になった。脱水状態で呆然となりながら飲んだレモンソーダは格別に美味くて、いつもは「めちゃくちゃ汚ねえなあ」と感じていた新宿駅前の景色が今日はなんだか綺麗に見えたから不思議だ。

 

 

 

きみと、波にのれたら


 観てきました。「映画は週に一本くらいは観たい」なんてほざいてるくせに、いざ行こうと思うと毎度めんどくさがって何かしらの言い訳をつくって引きこもってばかりですが、今回は前日にTwitterで「明日観てくる」と宣言したのでちゃんと実行できました。ようやくインターネットの正しい使い方を見つけた気がする。  


 まあそんな前置きはどうでもいいのでさっさと感想を述べてしまうと、五郎さんじゃないが「そうそう、こういうのでいいんだよ」の一言に尽きる。

 これはアニメや映画に限らず、他の趣味全般にも当てはまることだが、オタクというのは得てして斬新なもの、珍しいものに惹かれがちである。

 例えば俺は趣味と言えそうなものは読書くらいしかないので、直近で読んだものを何冊か例に挙げてみよう。


 二巻にもなるのに脇道にそれてばかりで全く話が進まず、なおかつ新刊が三年以上出ていないライトノベル
 あらすじと表紙のイラストからしてコメディタッチな恋愛ものかと思ったら、重厚でシリアスなパラレルワールドものの百合小説。
 鼻行類なる存在しない架空の生物について延々と大真面目にまとめられている生物書。

 例を挙げて改めて自覚したがマジで変な本しか読んでねえな…

 ともかくオタクというのは偏屈な生き物なので、大衆受けするようなわかりやすい物語を好まない。「ベタでありきたりで観客に媚びたような物語は俺の心を満たしてくれない」と決めつけ、マイナーなもの、より正確に言えばマイナー界隈ではメジャーで評価の高いものに触れることで、『わかっている自分』に酔いたがる。少なくとも俺はそう。この文章に登場する『オタク』というワードはすべて一人称だと思って読んでもらっても全く差支えがない。


 それでは、今日見てきた『きみと、波にのれたら』がそんな偏屈なオタクの欲求を満たす奇異な作品かというと、答えはNOだ。
 むしろ、いたってベタなものだった。

 映画のあらすじは『死んだ恋人に彼氏に未練を抱いていたら、ある日その恋人が蘇る』というありがちなもので、テーマもこういう作品に往々にして見られる『死者との決別を乗り越えて新しい日々を迎える」というものだ。メインキャラクターもたったの四人に絞られていて、全体的に非常にシンプルな作りになっている。

 それなのに、めちゃくちゃ面白い。近頃観た映画のなかでも抜きんでている。まだ公開には一か月ほど控えているが、観る前から「今年観た映画ランキング」に入るであろうことがほぼ確定している『天気の子』を差し置いて今年最も好きな映画になるかもしれない。『秒速五センチメートル』に人生を歪められたと自覚しているほど新海誠に入れ込んでいる俺がそう言うまでに、この作品は見事な出来だった。(それに今年はあの野崎まどが脚本を務める『Hello,world』も上映するし、響け!ユーフォニアムの劇場版もあった。まだ足を運べていないが『プロメア』も『海獣の子供』もとても面白そうだ。かなり豊作な年ですね)

 なにより過不足がまるでないのだ。蒔いた伏線はしっかりと回収するし、余計な描写は入れない。


 登場人物が四人しかいないといったが、それゆえにしっかりと彼らのことを掘り下げ、魅力的なキャラクターに仕立て上げている。


 ひな子はあっけらかんとしながらも、将来への態度がフワフワとしていて不安定な、いかにも主人公兼ヒロインな性格だ。

 その彼氏となる港は何でも完璧にこなせてしまえて顔も性格も良い頼れるイケメンだが、じつは尋常でない努力家の側面を隠し持つ男で、俺が女だったら間違いなく惚れているし、なんなら女でなくとも惚れかけた。

 港の勤める消防署の後輩にあたる山葵は見るからにいい奴で、空回りしたり時には後ろ向きになってしまうが、それでもいつも素直に生きている姿はとても好感が持てる。

 そして港の妹である洋子だが、これがもうべらぼうに可愛い。つい毒舌になってしまい人間関係に不器用な彼女だが、心の奥底にはたしかな優しさや正義感を持っている。高校生ながら兄の死をまわりの誰よりも早く受け止めて毅然と振る舞い、いちはやく天国にいる兄のために前向きな一歩を踏み出したのも彼女だ。そして気を許したひとには垣間見せる無邪気な姿がたまらない。いわゆるツンデレキャラというやつだが、彼女の魅力はステレオタイプのそれを遥かに逸脱している。この辺はぜひ映画館に行って確かめてきてもらいたい。というかそれが言いたくてこうしてダラダラと慣れないレビューのようなものを書きなぐってるまである。

 そんな魅力的な彼らが織りなすストーリーはどこかで見たようなベタなもので、途中で展開が見えてしまうことが多々あるが、そんなことはまるで問題ではない。
 例えば、オムライスの味を知っているからと言って目の前にあるそれの味が落ちることはない。良質な食材を、熟練した技術を持つ料理人が調理したらそれはなんであれ上手いのだ。
 それと同じように、俺は「ラストはきっとこう来るんだろうなあ」と身構えていたにも関わらず、感極まって涙を流してしまった(俺の涙腺が緩いというのもあるが)。

 たった今挙げた例だったり、冒頭で『孤独のグルメ』の名言を持ち出したりと、ここまで何かと料理にこじつけてきたが、よくいわれる言葉に「シンプルな料理ほど誤魔化しがきかなくて難しい」というものがある。凝った料理を作れるかどうかよりも、卵焼きを如何に美味しく作れるかの方が、そいつの技量がよく表れるというのだ。

 俺は料理はほとんどしないといっていいので真偽は測りかねるが、少なくとも物語においては当てはまるように思う。

 変わった物語なら、その異質な部分に人々の目は向くので多少の粗は誤魔化せる。
 だけどベタなものはそうはいかない。観客が既に知っているような展開で勝負するというのは、逃げが利かないということだ。
 だから、奇を衒った物語を書くよりも、王道なものを面白く仕上げるほうがずっと難しいように思える。

 『シンプルイズベスト』とはよく言ったものだ。

 本作はまさにそれを成し遂げた作品だ。良い意味で、脚本のお手本のような映画。わかりやすいシナリオで感情移入がしやすいながらも、客に媚びたような雰囲気は一切ない。
 いつもは変わった作品ばかり嗜んでいる、偏屈なオタクにこそ見てほしい映画だと思いました。

人が少ない街が好きだ

家から数駅離れたその街に、最近気に入っている本屋がある。店内はかなり広くて、品揃えもなかなか良い。

もちろん新宿の紀伊国屋書店や、丸の内の丸善、それから最近訪れた池袋のジュンク堂ほどの規模ではないが、それでもぼくの家の近辺をあらかた探索した限りでは、そこが最も大きな書店だった。
このレベルの本屋が家の近くにあるだけでも、かなり恵まれていると思う。

そして何より素晴らしいのが、それだけの規模を誇りながらも、人がまるでいないことだ。 書店どころか、そもそも街全体に人けがない。

どうやらこれはぼくが平日にしかその街を訪れたことがないゆえのバイアスらしく、休日にはカップルや家族連れで大変賑わっているらしい。

そんな話を聞いたものだから、ぼくはその街には絶対に平日にしか訪れないようにしようとの思いを強固なものとした。だからあの街はぼくの主観や経験に基づくと、人の少ない街という烙印を永遠に押されたままなのだろう。





それはともあれ、ぼくは人の少ない街が好きだ。

田舎生まれの母を持ち、毎年夏になると都会から離れて祖父母の家に訪れていたぼくにとって、都会と田舎は、どちらが良いというものでもなく、それぞれに便利だったり不便だったりする点を抱えていて等価値だ。

きっとどちらのこともぼくはそれなりに好きだし、どちらのこともそれほど好きではない。

都会は店が多くて交通の便も良いけれど、東京という街はいかんせん人が多すぎる。

田舎は景色も空気も綺麗で、静かで落ち着く場所ではあるけれど、車を持たなければ行動範囲は狭くなってしまうし、欲しいものも通販を使わなければ手に入らなかったりする。そして人が少ないのは良いが、虫が多い。


そんなぼくにとって、人が少ない街というのは折衷案として最高のものだ。交通の便も、店の多さも、人と虫の少なさも、すべてにおいて好条件だ。

だからぼくは、歩くには少し遠い距離を無理して歩き、その街に度々訪れる。


電車に乗ればすぐに着いてしまう距離をわざわざ歩くと、文明のありがたさが身に染みて理解できる。

行きは徒歩で、帰りは電車に乗ると尚わかりやすい。

原始的な方法では途方もなく時間がかかることを、文明はあっけなく済ましてしまう。

まあ、極度の金欠からやむを得ず徒歩という手段を用いているぼくは、よほど疲れてもいない限りそんなことはしないのだけど。




ところで、冷静に考えてみると、金欠だから仕方なく歩くことへの妥当性は甚だ疑わしいものがある。

なぜなら、特にこれから先暑くなるにつれて顕著になるのだが、長い距離を歩くにはそれなりの水と食料が必要だからだ。

道の途中、自動販売機を見かけるとつい飲み物を買ってしまうし、コンビニを見つけるとホットスナックやおにぎりを買ってしまう。

多分それらの金額を合計すると電車賃と同じかそれ以上になるだろう。



数年前にも似たようなことをしていた。

その頃のぼくは、やはり金欠だからという理由で、移動をすべて自転車で済ませていた。

家から30km圏内はすべて自転車で行けるとみなし、頑なに電車に乗らなかった。

それも、ロードバイクやマウンテンバイクを持っていなかったのですべてママチャリで移動していたのだが、そんなことをすると当然、身体は水分や食料の補給を要求してくる。

それにすべて応えているとやはり電車に乗るのと同じくらいお金を使うのだが、当時のぼくはそのことに対して何となく目を背けて、相変わらず金がないという誰に向けたのかわからない言い訳を多用していた。

きっとぼくは、お金がないからとかそんな理由ではなく、単純に自転車に乗ってどこかへ行きたかっただけなのだと思う。そして今も同じように、金欠による代替手段ではなく純粋に、歩くことが好きなのだと思う。




そうわかっているのに、わざわざ自己欺瞞を繰り返し続けてるのは、本当にそれが好きなのかどうか、自分でも確信が持てないからだ。

ぼくはとても飽き性で移り気な人間だ。

この世界の何よりも大事なものだと思えたことでも、30分も経つ頃にはすっかり忘れてしまっている。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」とはよく言ったもので、結局のところぼくの好きなものはすべて、この果てしなく長い人生の退屈さから目を背けるためにあるのだと思う。

その用途さえ果たせれば対象は何でもよくて、だからぼくはこの世の大抵のものがそれなりに好きで、それほど好きではない。


まるで、さっき話した都会と田舎のように。


そんなぼくの「好き」という感情はとても不純なものだから、ぼくは自信をもって何かを好きだということができない。

それどころか、好意に限らずぼくの頭の中にあるものはすべて一貫性を持たない。昨日のぼくと今日のぼくはまるで違うことを考えていて、眠りにつくたびに全く別のデータが上書きされてるのではないかと不安になる。

哲学を学んだらそうした疑問について先人の思想を取り入れて答えが出せるのだろうかとも思うけれど、哲学書を読み切ることは、風見鶏のような意志を持つ人間にとってあまりにも困難だ。



そういうわけで、ぼくは文章を書くことを苦手としている。

書き始めた時にはたしかに切実で表現したい何かがあったはずなのに、少しでも時間をおいてしまうと最早関心を持てる話題ではなくなっていて、書いているすべてがなんだか嘘くさいものに思えてしまうのだ。

こうして「ぼく」だなんて普段は殆ど使わない一人称を用いているのも実はそんな理由からだ。

自分が書いた文章を嘘くさいと感じるなら、初めから自分に似た他の誰かが書いているものだと思えばいい。

私は前述したような欠陥のせいで、自分の人生にリアリティを感じることが困難だったが、自分に似た誰かの人生を空想して没入することはできた。

文章においても同じことをすれば多少は気楽に書けるのではないかと思い立ったのが、この記事を書きはじめたきっかけだ。



そうしてここまで書き終えてみると、なんだか普段の私が書いているのと大して変わらない文章が並んでいる。

意思に一貫性がないなんて書いたけれど、それは脳の表面を見ただけに過ぎなくて、きっと脳みそのもっと奥深くの部分は、私の意思などお構いなしに、私のようにふるまってくれるのだろう。

ともかく、こうした手法を取ると、かなり文章が書きやすいことがわかった。

きっと今までの私なら、初めの「人がいない街が好きだ」というくだりで、本当にそうだろうかと疑ってしまい、筆を折っていただろう。

初めから嘘だと割り切っていれば、嘘くさいかどうかなんてもはや関係ない。


だから、この文章も、そしてこれから先に書くかもしれない文章も、あくまで私に似た架空の誰かが書いたものだと思って話半分に読んでくれるとありがたい。

魍魎の匣

*ネタバレ注意*

これが一冊の本だとは信じられない。

それが、この度『魍魎の匣』を読む前、そして読み終えた後に受けた印象だ。

読む以前は無論その厚さに対して唖然としたが、読み終えてからはよくこの内容を一冊の本に纏められたなと作者の能力に驚嘆した。

この本を読むのは実は二度目だ。*1 初めてこの本を読んだときのことはよく覚えている。
中学生の頃に、夏休みの宿題の読書感想文に課題図書が設定されていなかったため、『魍魎の匣』を選んだのだ。
読書感想文を書くのにこんな厚い本を選ぶなんて、自分でもどうにかしてると思うが、中学生だし変な見栄があったのだろう。『姑獲鳥の夏』が面白かったので読書感想文を盾に次作を買う金を親にせびりたかったというのもある。

結局この本を読み終えたのは課題提出日の前日だったが、どうせ早く読み終えても宿題を始めるのは前日だったろうし、それならばむしろ記憶が鮮明なため丁度よかったのかもしれない。鉄は熱いうちに打て、とも言うことだし。

その時書いた内容の詳細までは思い出せないが、 「人を殺すのは、通り物が訪れたからだ」という思想に感銘を受け、そのことについて、丁度読み終わった直後だった『黒猫の三角』と交えて語る、というのが大雑把なところだったと思う。

多分今その時書いた文章を読んだら恥ずかしさに死にたくなるのは間違いない。

中学生の頃に書いた文章を直視できる人間がいたら、そいつは相当の文才か精神力を持っていると思うが、中学時代どころか前日に書いた文章でさえ読んだら羞恥に悶えて死にたくなる私には到底真似できない。*2

そんなわけで感想文自体の出来には大分否定的なのだけど、自分の人生を振り返って "文章" と呼べるものを書いたのはあの時が初めてだったように思う。


それまで読書感想文というのは、既定の枚数が5枚だとしたら3枚はあらすじに使い、残りの1枚と1行*3を小学生でも書けるような薄っぺらい感想をひたすらに引き延ばしてどうにか升目を埋めていく作業だと思っていた。*4

しかし、『魍魎の匣』の感想文を書いている時、初めて文章を書くとは自分の考えを言葉にすることなんだな、と割と当たり前のことをようやく悟った。

思うに、"読書感想文" という名前のせいで、それまでの私は文章を書けなかったのだ。

読書感想文だけではなく、映画やアニメやゲームなどにしても、あらゆる物の感想について述べるとき、それは "感想" だけをひたすら並べなければならない、という固定観念に勝手に支配されていた。

しかし、語彙がやたら豊富な人間でもない限り、そんな考えのもとで小中学生が原稿用紙5枚をまともな文章で埋められるわけがない。
小中学生どころか、今書けと言われたって無理だ。

感想なんて、 「面白かった」 「つまらなかった」 「悲しかった」 「楽しかった」 みたいに、一言で終わる単純なものばかりじゃないか。

そんなもので長い文章なんて書けるはずはないから、結局は "感想" ではなく、その本に影響されて生まれるなりした "考え" を書くしかない。

そのことに私は中学三年生に至るまで全く気がつかなかったのだ。

だから私は、読書感想文という名前を今に廃止して、読書考察文とかもっと他の名前をつけるべきだと思う。さすがにこの名前はセンスなさすぎるけど。

そうすることで、少なくとも自分と同じような理由で文章を書くことにアレルギーを持ってしまう子どもが、少しは救われる気がする。

今じゃこうして読書感想文へのヘイトを綴ってるだけで1600文字を超えて読書感想文ならノルマクリアなので、成長(?)したものだなと思う。

あれ以来適当に思いついた考えともつかないものを書き連ねれば升目というのは存外早く埋まるものだと気がついたので、長さに目を瞑れば『魍魎の匣』は読書感想文に意外と適している かもしれない。

ただ、味をしめて高校に入って以来適当に書くことに慣れすぎて、読書感想文も課題図書を半分ほどしか読まずに、とりあえず升目は埋めましたみたいな纏まりのない駄文を提出してしまったので、今ではもう少し真面目にやればよかったかなと若干の後悔は残るが。


かなり話が逸れたけれど、そんなわけで『魍魎の匣』にはそれなりに強い思い入れがある。多感な中学生時代に読んだというのも大きい。

ようやく冒頭で述べた本題に戻る。

この本が一冊に纏まっているのは凄いと言ったが、どこが凄いのかというと、ひとつの小説とは思えないほどに多数の物語が絡まりあっているところだ。

普通、小説というのは一冊につきひとつの物語が語られることが多い。少なくとも、私の読んだ範囲では大抵がそうなっている。

それに対してこの作品は、楠本頼子と柚木加菜子*5木場修太郎久保竣公、柚木陽子、美馬坂幸四郎、雨宮典匡*6の物語が、それぞれに影響を与え、まるで魍魎のような、捉えどころがなく曖昧なひとつの物語を成している。*7

それらの物語の断片的な、そしてはっきりとしない情報が、関口巽榎木津礼二郎、鳥口守彦、木場修太郎といった人物を介して京極堂へと集まり、そして彼の類まれなる頭脳によって整理され、語り直されることでひとつの像を結ぶ流れはとても美しい。


情報というのは、糸のようなものだと個人的に解釈している。

それが頭の中で綺麗に伸ばされて整頓されている者もいるが、私のようにどう片付けてよいか分からず多数の糸が絡まり合い、ごちゃごちゃとした糸くずのようなもので頭の中が溢れている者もいるだろう。˜˜というか自分以外にもいて欲しい。˜˜

思考を言葉にするというのは、この糸を編んで繊維製品を作るようなものだと思う。*8

糸の量が足りなければ望むものは作れないし、また量は足りているが素材や色が異なるため満足のいく出来にならないこともあるだろう。

そして繊維製品を作るのに大切なのは糸だけではなく、それを編む技術ないし機械が必要である。

京極堂というのは、個人を指していうのならミシン、或いはあの古本屋という場所そのものを指すなら、繊維工場のようなものではないか。

糸はそれ単体ではなんの役割も果たさないが、それが集まり、京極堂という優秀な頭脳により加工され、一連の事件の真相という製品が作られるのだ。  


  

しかし、京極堂は、機械に例えるにはいささか情熱的で人間味に溢れすぎている。 

  

私が探偵と言われて真っ先に思いつくのは、犀川創平と中禅寺秋彦であるが、この二人には共通点がある。  

そしてその共通点ゆえに彼らはいわゆる探偵と言われて普通想起するような人格像とは大きく異なっている。  

それは、どちらも事件を解決することに消極的であるという点だ。犀川先生は事件が目の前で起ころうと大して関心を持たないし、京極堂は事件にかかわることをとにかく拒みたがる。   二人の生活ぶりから考えるとそれは当たり前ともいえる。双方ともに、社会で起こっていることに興味を示さず、自分の興味の向く分野にのみ時間を費やし、静かな生活を送っている。とても憧れる生活だ。 そんな私に彼らの気持ちを代弁させてもらえば、それは社会と極力かかわりを持ちたくないというのがとにかく大きい。  

社会についてのヘイトは書いていると余計に厭世観が強くなるので省くが、そもそもこの文章をわざわざ読むような人間には説明するまでもない気がする...、社会の面倒さとはすなわち人間の面倒さである。  

もちろん、私も、そして犀川先生も京極堂も人間関係全般を嫌っているのではない。むしろ、好きな人間とは積極的に関わりを持っていたいと思うだろう。その証拠に、犀川先生は真賀田四季西之園萌絵に関しては執着を見せるし、京極堂も悪態をついてはいるが関口が困っていれば助けるし、彼の著作をすべて読み、なおかつ高い評価までしている。この辺のツンデレ描写は必見である。  

要するに、‘はずれ’の人間とかかわるのが面倒なだけなのだが、殺人事件なんてものは否応なしにそれらと関わらねばなるし、大抵は世界や人間の嫌な面を露骨に見せられることになる。だから、彼らのような静かな生活を好む者が殺人事件なんて面倒なものに積極的に首を突っ込むはずもないのだ。  

幸い私はそういった事件に巻き込まれたことはないが、彼らの気持ちはよくわかる。私が好きな探偵として彼らを挙げるのは、あこがれだけでなく、そうした理由もあるのだろう。  


さて、ここまで二人が似ているかのように述べた。お互いに社会とかかわるのを拒み、それゆえ事件解決に消極的であると。  

しかし、その内実には大きな隔たりがあるように思われる。  

犀川先生が事件に関わりたくないのは、純粋に興味のなさと煩わしさに所以すると思うのだが、京極堂は、事件そのものではなく、事件を解決することで多くの人が傷つき、そしてそれによって彼自身が苦悩することに煩わしさを感じているように思う。*9 

そしてそれについては、京極堂の親友であるところ関口巽と交えて語っていきたい。  

関口巽は元鬱病患者の作家である。京極堂や榎木津といった友人たちのおかげで現在は治ったらしいが、それでも頻繁に鬱状態になって寝込んだり、周囲のことにひどく動揺して口がきけなくなったりする。*10

彼の物語は、『魍魎の匣』においては直接描かれず、語り手に徹しているように一見思われるが、事件に関わることで様々な人間の闇を目の当たりにする度、彼の闇もまた発露する。だから、今作における彼の物語も、まるで魍魎のようにとらえどころのないものとなっている。  

彼は、良くいえば感受性が強く、悪くいえば精神病を引きずっているのだろう。事件の関係者の心理を必要以上にトレースしてしまい、また他人と会話している際に勝手に内省をし勝手に自分を恥じることも多い。それを代表するエピソードとして、以下のようなものがあるのだが、個人的にその場面がとても好きだ。  

彼の今まで書いた作品をまとめ、短編集を出さないかと懇意にしている出版社から打診された彼は、「自分の書いた文章は、私という人間の取り込んだ養分の絞り粕であり、排泄物のようなものであり、それにいまさら手を加えるなど無為に思われるから加筆修正などせずに勝手に出版してくれて構わない」というのだが、編集者から「それでは私は先生の屎尿に触れて感動したことになる」と苦笑される。それを聞いた関口は自分は他人に屎尿をまき散らすだけでなく、あまつさえそれで金を得ていたのかと気づいて赤面し、慌てて前言を撤回して加筆修正する旨を伝えると編集者は「どうしたんだこいつは」とばかりに呆気にとられる。  

この3ページにも及ばない場面は、関口巽という人間を上手く表現していて素晴らしい。何より、相手が全く問題と思ってない自分の発言を一人で勝手に恥ずかしくなって訂正するという状況には私自身何度も出くわしたことがあるので共感できる。  

そんな関口巽だが、連続バラバラ殺人事件の犯人である久保竣公に対して彼が抱く思い入れと、彼自身が久保のように人の不幸を覗きたがる蒐集者となっていく様子に着目したい。  

その前に久保竣公について補足しておこう。  

彼は、箱を作ることにのみ情熱を注ぎ他のことを一切省みない父親と、鬱病の母親のもとに産まれた。そんなわけで彼は育児放棄され、何年も言葉を話さず、母の鬱病が回復した後も言葉を発さないという理由で気味悪がられた。やがて戦争がはじまり、父親が出征すると、何らかの事故で竣公は指を箱に挟まれて失う。母親はそれを見ても半狂乱になるだけで治療もせず、箱がすべていけないのだという結論に達し、箱屋である家を捨てて九州へと逃げる。その途中で母親は首を吊って自殺し、竣公は修験者に拾われて育てられる。  

やがて上京した竣公は父親と再会し、数年ぶりに姿を見せた息子に恐れをなした父親を利用して御筥様という新興宗教を始める。*11  

御筥様を始めた理由については、彼の書いた『蒐集者の庭』という小説にあらわれている。  

その小説の主人公は、伊勢神宮の神官でありながら、他人の懊悩を蒐集することを生きがいとし、人の人生を石塔に封じ込め、それを自分の屋敷の庭に立てる。そして夜な夜な石塔から聞こえる悩み苦しみに耳を傾けるのだが、やがて石塔の数が増え、夥しい慟哭や鳴き声が彼の庭から聞こえてくる。その話を聞きつけた山伏がそんな禍々しいものはこの世のためにならないと言って乗り込み、神官と口論をするのだが、その最中に自分の深い業を吐露した神官は結局自らが石塔になってしまう。しかし、神官の精神の空洞を覗いてしまった山伏はすっかりその暗黒に魅了され、結局神官の<庭>を自らが引き継ぐ。  

久保竣公が御筥様を作ったのは、神官と同じく、他人の不幸を覗くためだった。箱を満たすことに何より執着した彼は、けれど自分自身は空っぽだったのだ。そして彼は匣に入った加菜子に魅入られたことで‛あちら側’に至り、自分も同じく匣に入った少女を作ろうと、連続バラバラ殺人を犯すこととなる。  

そんな彼に、関口巽はどこか愛着を持っていたように思う。初対面では久保に馬鹿にされた態度をとられながらも若い同業者に感心していたし、京極堂久保竣公が連続バラバラ殺人の犯人だと告げた時も、まるで久保をかばうような発言をしていた。共感か、同情のようなものを抱いていると思われるシーンが、ほかにも散見される。*12物語の終盤、美馬坂近代医学研究所において、久保竣公が匣のなかでまだ生きていることが明かされると、既に事件の真相が明らかになるにつれて人の闇を覗き、久保や、そして雨宮のように‛あちら側’に魅了され、そこに至ろうとした関口は、美馬坂父娘の秘密を知りたがる素振りを見せたかと思えば、加菜子が美馬坂の娘だと判明するやいなや美馬坂への興味を失い、まるで父娘の痴話ばなしには興味がないとでもいうように、その後の展開そっちのけで匣に近づき、久保の姿を見ようとする。 結局美馬坂に気付かれて匣を覗くことには失敗し、関口は正気を取り戻すのだが、その際の独白は興味深い。

知らず知らずのうちに、久保と同じ蒐集者となっていたのだ。 他人の心を覗くうちに、その秘密を知る度に。  

犯罪は、社会条件と環境条件と、そして通り物みたいな狂おしい瞬間の心の振幅で成立し、犯罪者は偶然その通り物に出会ってしまっただけだ。動機なんてものは、社会を納得させる後付けに過ぎない。そして裏を返せば、誰だってその通り物に出会ってしまえば犯罪を犯す可能性は十分に存在し、紙一重のところに存在しているという主張は、本作でたびたび主張される。*13

これは何も犯罪に限った話ではない。誰だって、ミイラ取りがミイラになるように、神官の行いを咎めに来た山伏のごとく、蒐集者になる可能性を秘めている。  

人の懊悩を覗きたい、というのは、普遍的な欲求のように思われる。はてそうだったかなと自分自身に照らして考えたとき、ものすごく身近なところにそれは存在していた。 

私は物語が好きだ。昔は、あらすじこそ面白ければそれで良いと思っていたが、最近になって、私は話の筋でなく、そのなかでいかに登場人物が苦悩し、どのように生きていくかという部分こそ、自分が物語に求めているものだと気が付いた。そしてこれは、他人の懊悩を覗くことに快楽を覚える蒐集者に他ならないではないか。私が大量に部屋に集めた物語たちは、人の人生が封じられた石塔そのものだったのだ。  

そして蒐集者である私は関口とともに、京極堂に対して問いを発する。  

なぜお前は、そこまで他人の人生を覗き、秘密に辿り着きながら平気でいられるのかと。  

ようやくここから、京極堂の人間臭さについて語り始めることができる。  

京極堂は、‛あちら側’に落ちることなく、様々な人間の秘密に触れ、事件を解決していく。  

では彼が淡々と、他人の心情を慮ることなく事件の真相を話すかと思えば、そうではない。  

彼は、他人の痛みを想像できる人間だ。元から無愛想な面をしているので傍目からはわかりづらいが、長年の付き合いである関口の視点からは、彼の悲しそうな顔、苦しそうな顔が幾度となく見られる。久保の犯行を生い立ちによる性格の歪みが原因であると関口が言った際には激怒すらした。  

そして今作における彼の人間臭さは、彼の美馬坂幸四郎に対する態度に最も色濃く表れていると私は感じる。   

戦時中に美馬坂と付き合いのあった京極堂は、彼に対して好感を抱いていた。恐らく、理性の権化でありながら、その研究に対する狂気的ともとれる執心の原動力が、不治の病にかかった妻を救おうという思いだという不器用さのようなものに、自分と重なるところを見出していたのではないか。関口も言うとおり、美馬坂幸四郎中禅寺秋彦は似ている。

そんな京極堂には、美馬坂をかばうような言動が多い。彼については、一連の事件には関係がないからと、限界まで関口達には秘密にし、美馬坂近代医学研究所に乗り込んだのも、人死にが出過ぎたから仕方なく、といった感じであった。  

法律で裁けない美馬坂の一見非道に思える行為についても、木場たちがそれに対し非難を浴びせた際には、価値観が異なるだけだとも言った。  

美馬坂が久保に首を噛み千切られて死に、柚木陽子も正気を取り戻し、事件が決着した際の、関口から見た京極堂の描写がとても好きだ。

京極堂は、美馬坂の顔を見ている。
この男は、きっとこう云う役回りが大嫌いなのだろう。所詮、凡ての物語は、この男の物語ではないからだ。
京極堂は、美馬坂をどんな心境で送っているのだろう。
私にはなんとなく解った。京極堂と美馬坂は同じ種類の人間なのだ。美馬坂が、勝手に自分だけ物語に入り込んで、さっさと向こう側に行ってしまったから、この偏屈な友人はきっと少しだけ悔しいのだろう。

この描写に、京極堂が探偵として事件を解決することに消極的な理由が集約されている。 京極堂は、ただ他の人間よりも強いというだけで、‛あちら側’に惹かれることには変わりがないのだ。   エピローグにおける京極堂と関口の会話を引用しよう。

「雨宮は、仮令捕まって監獄に入っても、そこに順応して幸福を手に入れるだろうか。」
彼にとっては法律など効力を持たないのであろう。
「だろうな」
京極堂が云った。
「美馬坂があんなに酷い努力をして得られなかったものを、雨宮はさっさと手に入れてしまった――」
その後の彼の言葉は聞き取り難かった。
しかし京極堂はこう続けたかったのだろう。
――美馬坂は、馬鹿だ、と。

「雨宮は、今も幸せなんだろうか」
「それはそうだろうよ。幸せになることは簡単なことなんだ」
京極堂が遠くを見た。
「人を辞めてしまえばいいのさ」

捻くれた奴だ。ならば、一番幸福から遠いのは君だ。そして、私だ。   

私も似たようなことを思う。 幸せになりたければ、今すぐ本を捨てて、考えることを辞めてしまえば良い、と。

『ハーモニー』のラストがとても好きだ。ちょうど弱っているときにあの圧倒的な幸福を見せつけられたため、立ち直るまで数日を要した。 大体、あれほど自分の意思を尊重し、トァンとキアンのイデオロギーそのものであった御冷ミァハですら、あの幸福に抗えなかったのだ。 それなら、誰だって考えることをやめたいと心のどこかで思うに決まってる。*14  

ただ、私がそうしないのは、それができないのは、心のどこかに、その決断をしたミァハを殺したトァンがいるからだと思う。*15苦悩に溺れる馬鹿よりも、何も考えない馬鹿のほうが明らかにマシだというのはわかっている。 けれど、私はなぜか、本当になぜかわからないのだけど、そうなるのを拒んで、考え続けていればいつか、悟りのようなものが開けて苦悩から解放されるかもしれない、そこまではいかなくとも、どこかで自分なりの落としどころのようなものが見つかるのかもしれないと、根拠のない希望を抱いて馬鹿なりに本を読んだり考え事に耽っている。  

きっと、関口も、京極堂も、似たようなものなのだろう。 私たちは、たしかに‛あちら側’と紙一重だが、それでもこうした生き方を続けている限り、やはり‛あちら側’とは程遠い人間なのだろう。  

物語の最後の、それでも彼岸と現実の狭間にで揺らぐ関口の独白を引用して、このとらえどころのない記事を締めようと思う。  

私は想像する。
遥かな荒涼とした大地をひとり行く男。
男の背負う匣には綺麗な娘が入っている。
男は満ち足りて、どこまでも、どこまでも歩いて行く。
それでも
私は、何だか酷く、――
男が羨ましくなってしまった。

*1:一度目に読んだときは何とも思わなかったが、今読むと中禅寺敦子がめちゃくちゃ可愛い。どことなく西之園萌絵にも似てるような気がする。

*2:もちろん今書いてるこの文章も明日には読むのさえ嫌になっているだろう。そんなものを人様に読ますなという気もするが…

*3:規定枚数が5枚ならば最後の1枚は1行でも良かった

*4:そのせいで、要点を纏めて語るのでなく、ダラダラと些末なことまで書いてしまう癖がついたせいで、今でもあらすじを書くのは苦手となってしまった

*5:頼子のことについて触れようと思っていたが、最後まで書いたところで書くタイミングを逃したのでここに書くが、彼女に関してだけは、京極堂の推理には賛同できない。たしかに彼女は母親と加菜子を同一視していたというのは認めるが、それでも彼女は加菜子のことが本当に好きで、加菜子の言う言葉を純粋に信じていたと私は感じた。

*6:彼についても語ろうと思ったがこれまたタイミングを逃した。とりあえず、この先を読むにあたって、彼がどんな状況にも適応して幸せを見出せる人間であり、久保と同様に、匣に入った加菜子に魅入られて‛あちら側’に至ってしまった人間だということは述べておきたい。

*7:もちろん他にも登場人物はいるけれど、主な物語はここに挙げた彼らのものだと思う

*8:私のような頭の中が絡まった糸くずだらけの人間は、この過程で否応なしにそれを解いて整理しなければならない。そのおかげで、文章を書き終えると自分の頭の中が少し整理されてスッキリする。ただ、この作業は絡まったイヤホンを解くようなものでやってる途中に上手くいかないとストレスが募ることになるけれど。

*9:別に犀川先生に人間味がないとは言ってない。彼のことはとても好きだ。

*10:ところでこの時代うつ病がどれだけ認知されていたのか気になった。最近でこそまあまあ理解を得られるようになったものの、それでもただの甘えだという人間は多い。関口自身は周りの理解がうつ病を治すには何より必要だといっていたが、それを彼がこの時代に得られたのはものすごい幸運なのではないかと思う。

*11:吉良吉影には、幼いころ母親から虐待されていたという裏設定があり、それを止められなかった父親が吉良の手助けをするのだが、お互いに殺人鬼であるという点も踏まえてなんとなく久保竣公吉良吉影を重ねて見てしまう。

*12:1000ページ以上あるので探すのがきつくて断念しました...すいません。

*13:私が読書感想文で書いたと最初のほうに言っていたのもこのことについてだ。

*14:書いてて本当にどうでもいいことに気がついたが、三人とも名前の真ん中に「ア」がつくんだな。キアンだけは小文字ではないので紛らわしい...

*15:最も、彼女は自分がその状態になることではなく、ミァハがそうなることを拒んだのだけど。