透明なクジラ

長すぎてTwitterに書けないこととか。

生活の記録を残す

 

 アラームの音で目を覚ます。役目を終えた後ではうるさいだけのそれを止めるために時計に手を伸ばすと、そこには付箋が貼られていた。「生活の記録を残す」、そんなことが書いてある。いったいどういう意味だろうと寝ぼけた頭で考えるところから、今日も一日が始まる。最近はいつもこうだ。

 付箋に書いてある言葉は、簡単に言えば昨日の自分からの指令だ。わざわざそんなものに毎日従うのは、一応の理由があってのことだ。私は自分でも愚かさを痛感するほどに日々を無為に生きている。日中は何も考えずにダラダラと過ごしているが、夜になって布団にもぐった途端に、今日もいつのまにか何もしないまま終わってしまったことに気付いて猛烈な後悔に襲われるのだ。そうしてひとしきり悔やんで眠りにつき、翌朝に目覚める頃にはすっかりそんなことも忘れていて、また同じように一日を浪費する。

 まるで五億年ボタンの漫画に出てきた主人公のようだ。五億年という途方もない時間を過ごす地獄を味わい、もう二度と経験したくはないとさえ思ったのに、元の世界に戻るとその記憶は失われているから、百万円という対価としてはあまりに安い料金に惹かれてボタンを押してしまう。

 幸いにも、私は彼と違って後悔の渦中にあって、次の自分にそれを引き継がせる手段を講じることができる。五億年ボタンを押した先の世界はこの世ならざる場所だが、明日の自分が目覚める世界は今と連続しているのだから。

 そんなわけで、私はその日の夜になって思いついたことを、付箋に書いて明日の自分に残すことにした。ちなみに着想を得たのは、最近見た『メメント』という映画からだ。記憶を失うのならば、記憶があろうがなかろうが目にする場所に覚えておきたいことを書き残せばよいのだ。

 

 さて、話は戻って「生活の記録を残す」という文言の意味だが、昨日のことを段々と思い出してきた。昨夜は久しぶりに、私が昔書いた文章を目にした。インターネット上の読書管理サイトに投稿した感想を、特に理由もないが見返してみたのだ。

 何年か前に書いた文章を読んでいると、当時の自分がどんな文章を書いていたのか、どんなことを考えていたのかということが窺えて面白かった。その頃考えていたことの半分ほどは、自分の中で常識とでも呼べる程度には馴染むようになっていて、もう半分はあまり共感を抱かないものだった。文章から受ける感じは今とそれほど変わらず、この頃にはスタイルというほどのものではないが、文章の書き方が確立されていたのだとわかる。

 こうして過去を振り返ってみるのも、たまには悪くないなと感じた。しかし、そんな懐古ができたのは私がそのための材料を偶然にもインターネットの海に放流していたからだ。普段の私は、基本的に記録というものを残さないし、記憶だってほとんど忘れて生きている。だからきっと、未来の私が過去を懐かしむことを望んだ際に、記憶を呼び起こす端緒がなくて困るのではないか。その時に備えて、意識的に日々の記録を残すべきではないのか。

 そんなことを考えて、私は「生活の記録を残す」なんてメッセージを残したのだろう。

 観光地に行ったり、美味しい料理を食べる際にいちいち写真を撮る人間のことが今まで理解できなかった。別に誰かに迷惑をかけるわけでないのなら勝手にすればいいが、肉眼で見る景色の方が私にとっては美しかったし、料理はそもそも食べるものではないかと思っていた。

 だがそれは誤解だったのだ。彼らは、現在を楽しむためであったり、その時々を正確に切り取るために写真を撮るのではない。きっと、いつか見返したときに懐かしむために写真を撮っているのだろう。そうは言っても「インスタ映え」という言葉が使われるようになって久しい昨今では、写真を撮りにいくことそのものが一種の娯楽として成立しているのだろうけど。

 

 こんな文章を書いているのも、そうした懐古の種を蒔いておく活動の一環だ。