透明なクジラ

長すぎてTwitterに書けないこととか。

銃口を突き付けられて生きたい

 

 惰性や習慣というものを、僕はほとんどかなぐり捨てて生きてきた。

 あれはたしか5~6年くらい前のことだったと思う。当時流行っていたソシャゲをやめた際に僕は自分にそんな愚かな枷をはめてしまったのだ。最も当時はそれが自由への近道だと信じて疑わなかったわけだが、今では僕の首を絞める最たる要因になっている。当時の自分曰く、「惰性でするような行為は結局のところ偽物だから、やらない方が幾分マシ」だそうだ。なるほど随分と崇高なお題目を掲げたものだ。たしかに習慣で行う行為に本物の感情が宿ることはないだろう。人間はできることなら本心から望むことをした方が幸せになれるはずだ。その点には同意する。

 だけど人間の本物の欲求なんて、長続きするようなものではないのだ。当時の僕は今に比べると気力に満ち溢れていたのでそれに気づけなかった。今でも急激に何かしらの本を読みたくなったり、アニメやら映画を見たくなったりすることはある。けれど大抵はその準備をする段階で当初の情熱は消え去り、その願いが叶えられることはない。本屋に行って欲しかった本を買ったのに、家に帰りつくころにはまるでそれを読む気力が湧かずにそのまま何年も放置されるなんてことはザラにある。

 僕はあの時、惰性を否定するべきではなかったのだろう。情熱をいつまでも保てるというのは、あらゆる分野における天才の根幹だと思う。そして凡才である僕が彼らには及ばずともそれなりに努力を続ける手段があるとしたら、それは習慣に他ならないのだから。そんなたった一つの冴えたやり方までも捨て去った僕はひたすらに虚無的な人生を送り、何一つ積み上げてきたものを持たない人間になってしまった。

 そんな僕が望むのは、情熱の灯をいつまでも消さない才能でも、習慣的に何かを行う能力でもない。いまさらそれらが手に入るとは思えないし、手にしたところでもはやそいつは僕とは違う人間のように感じてしまうからだ。「醜いアヒルが白鳥にならずに、醜いまま幸福になるのが本当の救済だ」なんてことを僕の好きな作家も言っていた。

 だから望みはただ一つ。誰か僕に銃口を突き付けてくれ。

 

 

 『ファイト・クラブ』という映画を見たことがあるだろうか。または原作小説を読んだというのでも構わない。ともかくこの作品にはとある印象的な場面があって、小説の訳者あとがきでも言及されているほどだ。その部分を引用しよう。

僕が『ファイト・クラブ』で好きなのは、終夜営業の商店でバイトを終えた見ず知らずの青年を主人公が銃で脅すシーンだ。 主人公は青年に銃を突き付け、お前の夢は何かと訊ねる。本当は獣医になりたかった、と青年が答えると、主人公は言う。「学校に行ってがむしゃらに勉強するか、あるいは死ぬか。レイモンド・ハッセルくん、自分で選ぶんだ」。そしてもし今後、君が夢に向かってがんばっていないとわかれば確実に殺す、と宣言する。おそらくこのあと青年は長年の夢をかなえることだろう。

まあ、この記事のタイトルからして、この場面について語るのだろうなというのはおそらく察していただろうがその通りだ。僕もこの映画を見た多くの連中と同じように、このシーンが好きでたまらない。

 僕にはもう惰性も情熱も残っていない。だけど、誰かが僕に銃口を突き付けてくれたなら、お前の夢は何かと聞いてくれたら、そして僕が死の恐怖を前にしてでっちあげたそれを叶えないと殺すといってくれたなら。僕はきっと自分が何を望んでいるのかを知り、それに向かって努力することができるだろう。

 

 ところで、僕はこの曲を聴くといつも『ファイト・クラブ』のそのシーンを連想する。(動画の後半は隠しトラックだけど)

youtu.be

 

さぁ いー加減 夢を撃て
錆び付いて孤独なリボルバー

 

弾倉には一発 共犯者になってやるよ 俺が
ぼーっとしてんなよ 行け リボルバー

曲名もまんま『リボルバー』だし。モラトリアムを絶賛謳歌中の身でいながら「いつかは年老いて骨だけになってしまう」なんて悟ったような口をきく僕に容赦なく銃口を突き付けてくる歌だ。作詞した山田亮一がどのようなつもりだったかは知らない。けれど間違いなく、この曲は僕にとってのタイラー・ダーデンなのだ。そろそろ目を覚ましてお前の夢に突っ走れよと強く訴えかけてくる。

 

 僕は『リボルバー』を少なくとも週に一度はおそらく聞いているんじゃないかと思う。そしてその度に何かやらなきゃという気分になる。とは言ってもやはりこの曲を聴いて突き動かされるのは、ほんの少しの間に過ぎなくて、一度眠ってしまえばその気持ちも忘れてしまうのだけど。それでも、たとえそれが長く続かなくたって今のところ僕にとっての最適なカンフル剤なのだ。だから、週一で僕を追い立てるタイラーでとりあえずはなんとかやっていこうと思う。何よりも、僕は既にこの曲に十分すぎるほど救われていて、そんな尊い経験やそれをもたらしてくれる素晴らしい作品に可能な限り手を伸ばして、それらを大切にしていきたいというのが僕の一番の願いなのだから。