透明なクジラ

長すぎてTwitterに書けないこととか。

人が少ない街が好きだ

家から数駅離れたその街に、最近気に入っている本屋がある。店内はかなり広くて、品揃えもなかなか良い。

もちろん新宿の紀伊国屋書店や、丸の内の丸善、それから最近訪れた池袋のジュンク堂ほどの規模ではないが、それでもぼくの家の近辺をあらかた探索した限りでは、そこが最も大きな書店だった。
このレベルの本屋が家の近くにあるだけでも、かなり恵まれていると思う。

そして何より素晴らしいのが、それだけの規模を誇りながらも、人がまるでいないことだ。 書店どころか、そもそも街全体に人けがない。

どうやらこれはぼくが平日にしかその街を訪れたことがないゆえのバイアスらしく、休日にはカップルや家族連れで大変賑わっているらしい。

そんな話を聞いたものだから、ぼくはその街には絶対に平日にしか訪れないようにしようとの思いを強固なものとした。だからあの街はぼくの主観や経験に基づくと、人の少ない街という烙印を永遠に押されたままなのだろう。





それはともあれ、ぼくは人の少ない街が好きだ。

田舎生まれの母を持ち、毎年夏になると都会から離れて祖父母の家に訪れていたぼくにとって、都会と田舎は、どちらが良いというものでもなく、それぞれに便利だったり不便だったりする点を抱えていて等価値だ。

きっとどちらのこともぼくはそれなりに好きだし、どちらのこともそれほど好きではない。

都会は店が多くて交通の便も良いけれど、東京という街はいかんせん人が多すぎる。

田舎は景色も空気も綺麗で、静かで落ち着く場所ではあるけれど、車を持たなければ行動範囲は狭くなってしまうし、欲しいものも通販を使わなければ手に入らなかったりする。そして人が少ないのは良いが、虫が多い。


そんなぼくにとって、人が少ない街というのは折衷案として最高のものだ。交通の便も、店の多さも、人と虫の少なさも、すべてにおいて好条件だ。

だからぼくは、歩くには少し遠い距離を無理して歩き、その街に度々訪れる。


電車に乗ればすぐに着いてしまう距離をわざわざ歩くと、文明のありがたさが身に染みて理解できる。

行きは徒歩で、帰りは電車に乗ると尚わかりやすい。

原始的な方法では途方もなく時間がかかることを、文明はあっけなく済ましてしまう。

まあ、極度の金欠からやむを得ず徒歩という手段を用いているぼくは、よほど疲れてもいない限りそんなことはしないのだけど。




ところで、冷静に考えてみると、金欠だから仕方なく歩くことへの妥当性は甚だ疑わしいものがある。

なぜなら、特にこれから先暑くなるにつれて顕著になるのだが、長い距離を歩くにはそれなりの水と食料が必要だからだ。

道の途中、自動販売機を見かけるとつい飲み物を買ってしまうし、コンビニを見つけるとホットスナックやおにぎりを買ってしまう。

多分それらの金額を合計すると電車賃と同じかそれ以上になるだろう。



数年前にも似たようなことをしていた。

その頃のぼくは、やはり金欠だからという理由で、移動をすべて自転車で済ませていた。

家から30km圏内はすべて自転車で行けるとみなし、頑なに電車に乗らなかった。

それも、ロードバイクやマウンテンバイクを持っていなかったのですべてママチャリで移動していたのだが、そんなことをすると当然、身体は水分や食料の補給を要求してくる。

それにすべて応えているとやはり電車に乗るのと同じくらいお金を使うのだが、当時のぼくはそのことに対して何となく目を背けて、相変わらず金がないという誰に向けたのかわからない言い訳を多用していた。

きっとぼくは、お金がないからとかそんな理由ではなく、単純に自転車に乗ってどこかへ行きたかっただけなのだと思う。そして今も同じように、金欠による代替手段ではなく純粋に、歩くことが好きなのだと思う。




そうわかっているのに、わざわざ自己欺瞞を繰り返し続けてるのは、本当にそれが好きなのかどうか、自分でも確信が持てないからだ。

ぼくはとても飽き性で移り気な人間だ。

この世界の何よりも大事なものだと思えたことでも、30分も経つ頃にはすっかり忘れてしまっている。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」とはよく言ったもので、結局のところぼくの好きなものはすべて、この果てしなく長い人生の退屈さから目を背けるためにあるのだと思う。

その用途さえ果たせれば対象は何でもよくて、だからぼくはこの世の大抵のものがそれなりに好きで、それほど好きではない。


まるで、さっき話した都会と田舎のように。


そんなぼくの「好き」という感情はとても不純なものだから、ぼくは自信をもって何かを好きだということができない。

それどころか、好意に限らずぼくの頭の中にあるものはすべて一貫性を持たない。昨日のぼくと今日のぼくはまるで違うことを考えていて、眠りにつくたびに全く別のデータが上書きされてるのではないかと不安になる。

哲学を学んだらそうした疑問について先人の思想を取り入れて答えが出せるのだろうかとも思うけれど、哲学書を読み切ることは、風見鶏のような意志を持つ人間にとってあまりにも困難だ。



そういうわけで、ぼくは文章を書くことを苦手としている。

書き始めた時にはたしかに切実で表現したい何かがあったはずなのに、少しでも時間をおいてしまうと最早関心を持てる話題ではなくなっていて、書いているすべてがなんだか嘘くさいものに思えてしまうのだ。

こうして「ぼく」だなんて普段は殆ど使わない一人称を用いているのも実はそんな理由からだ。

自分が書いた文章を嘘くさいと感じるなら、初めから自分に似た他の誰かが書いているものだと思えばいい。

私は前述したような欠陥のせいで、自分の人生にリアリティを感じることが困難だったが、自分に似た誰かの人生を空想して没入することはできた。

文章においても同じことをすれば多少は気楽に書けるのではないかと思い立ったのが、この記事を書きはじめたきっかけだ。



そうしてここまで書き終えてみると、なんだか普段の私が書いているのと大して変わらない文章が並んでいる。

意思に一貫性がないなんて書いたけれど、それは脳の表面を見ただけに過ぎなくて、きっと脳みそのもっと奥深くの部分は、私の意思などお構いなしに、私のようにふるまってくれるのだろう。

ともかく、こうした手法を取ると、かなり文章が書きやすいことがわかった。

きっと今までの私なら、初めの「人がいない街が好きだ」というくだりで、本当にそうだろうかと疑ってしまい、筆を折っていただろう。

初めから嘘だと割り切っていれば、嘘くさいかどうかなんてもはや関係ない。


だから、この文章も、そしてこれから先に書くかもしれない文章も、あくまで私に似た架空の誰かが書いたものだと思って話半分に読んでくれるとありがたい。