透明なクジラ

長すぎてTwitterに書けないこととか。

魍魎の匣

*ネタバレ注意*

これが一冊の本だとは信じられない。

それが、この度『魍魎の匣』を読む前、そして読み終えた後に受けた印象だ。

読む以前は無論その厚さに対して唖然としたが、読み終えてからはよくこの内容を一冊の本に纏められたなと作者の能力に驚嘆した。

この本を読むのは実は二度目だ。*1 初めてこの本を読んだときのことはよく覚えている。
中学生の頃に、夏休みの宿題の読書感想文に課題図書が設定されていなかったため、『魍魎の匣』を選んだのだ。
読書感想文を書くのにこんな厚い本を選ぶなんて、自分でもどうにかしてると思うが、中学生だし変な見栄があったのだろう。『姑獲鳥の夏』が面白かったので読書感想文を盾に次作を買う金を親にせびりたかったというのもある。

結局この本を読み終えたのは課題提出日の前日だったが、どうせ早く読み終えても宿題を始めるのは前日だったろうし、それならばむしろ記憶が鮮明なため丁度よかったのかもしれない。鉄は熱いうちに打て、とも言うことだし。

その時書いた内容の詳細までは思い出せないが、 「人を殺すのは、通り物が訪れたからだ」という思想に感銘を受け、そのことについて、丁度読み終わった直後だった『黒猫の三角』と交えて語る、というのが大雑把なところだったと思う。

多分今その時書いた文章を読んだら恥ずかしさに死にたくなるのは間違いない。

中学生の頃に書いた文章を直視できる人間がいたら、そいつは相当の文才か精神力を持っていると思うが、中学時代どころか前日に書いた文章でさえ読んだら羞恥に悶えて死にたくなる私には到底真似できない。*2

そんなわけで感想文自体の出来には大分否定的なのだけど、自分の人生を振り返って "文章" と呼べるものを書いたのはあの時が初めてだったように思う。


それまで読書感想文というのは、既定の枚数が5枚だとしたら3枚はあらすじに使い、残りの1枚と1行*3を小学生でも書けるような薄っぺらい感想をひたすらに引き延ばしてどうにか升目を埋めていく作業だと思っていた。*4

しかし、『魍魎の匣』の感想文を書いている時、初めて文章を書くとは自分の考えを言葉にすることなんだな、と割と当たり前のことをようやく悟った。

思うに、"読書感想文" という名前のせいで、それまでの私は文章を書けなかったのだ。

読書感想文だけではなく、映画やアニメやゲームなどにしても、あらゆる物の感想について述べるとき、それは "感想" だけをひたすら並べなければならない、という固定観念に勝手に支配されていた。

しかし、語彙がやたら豊富な人間でもない限り、そんな考えのもとで小中学生が原稿用紙5枚をまともな文章で埋められるわけがない。
小中学生どころか、今書けと言われたって無理だ。

感想なんて、 「面白かった」 「つまらなかった」 「悲しかった」 「楽しかった」 みたいに、一言で終わる単純なものばかりじゃないか。

そんなもので長い文章なんて書けるはずはないから、結局は "感想" ではなく、その本に影響されて生まれるなりした "考え" を書くしかない。

そのことに私は中学三年生に至るまで全く気がつかなかったのだ。

だから私は、読書感想文という名前を今に廃止して、読書考察文とかもっと他の名前をつけるべきだと思う。さすがにこの名前はセンスなさすぎるけど。

そうすることで、少なくとも自分と同じような理由で文章を書くことにアレルギーを持ってしまう子どもが、少しは救われる気がする。

今じゃこうして読書感想文へのヘイトを綴ってるだけで1600文字を超えて読書感想文ならノルマクリアなので、成長(?)したものだなと思う。

あれ以来適当に思いついた考えともつかないものを書き連ねれば升目というのは存外早く埋まるものだと気がついたので、長さに目を瞑れば『魍魎の匣』は読書感想文に意外と適している かもしれない。

ただ、味をしめて高校に入って以来適当に書くことに慣れすぎて、読書感想文も課題図書を半分ほどしか読まずに、とりあえず升目は埋めましたみたいな纏まりのない駄文を提出してしまったので、今ではもう少し真面目にやればよかったかなと若干の後悔は残るが。


かなり話が逸れたけれど、そんなわけで『魍魎の匣』にはそれなりに強い思い入れがある。多感な中学生時代に読んだというのも大きい。

ようやく冒頭で述べた本題に戻る。

この本が一冊に纏まっているのは凄いと言ったが、どこが凄いのかというと、ひとつの小説とは思えないほどに多数の物語が絡まりあっているところだ。

普通、小説というのは一冊につきひとつの物語が語られることが多い。少なくとも、私の読んだ範囲では大抵がそうなっている。

それに対してこの作品は、楠本頼子と柚木加菜子*5木場修太郎久保竣公、柚木陽子、美馬坂幸四郎、雨宮典匡*6の物語が、それぞれに影響を与え、まるで魍魎のような、捉えどころがなく曖昧なひとつの物語を成している。*7

それらの物語の断片的な、そしてはっきりとしない情報が、関口巽榎木津礼二郎、鳥口守彦、木場修太郎といった人物を介して京極堂へと集まり、そして彼の類まれなる頭脳によって整理され、語り直されることでひとつの像を結ぶ流れはとても美しい。


情報というのは、糸のようなものだと個人的に解釈している。

それが頭の中で綺麗に伸ばされて整頓されている者もいるが、私のようにどう片付けてよいか分からず多数の糸が絡まり合い、ごちゃごちゃとした糸くずのようなもので頭の中が溢れている者もいるだろう。˜˜というか自分以外にもいて欲しい。˜˜

思考を言葉にするというのは、この糸を編んで繊維製品を作るようなものだと思う。*8

糸の量が足りなければ望むものは作れないし、また量は足りているが素材や色が異なるため満足のいく出来にならないこともあるだろう。

そして繊維製品を作るのに大切なのは糸だけではなく、それを編む技術ないし機械が必要である。

京極堂というのは、個人を指していうのならミシン、或いはあの古本屋という場所そのものを指すなら、繊維工場のようなものではないか。

糸はそれ単体ではなんの役割も果たさないが、それが集まり、京極堂という優秀な頭脳により加工され、一連の事件の真相という製品が作られるのだ。  


  

しかし、京極堂は、機械に例えるにはいささか情熱的で人間味に溢れすぎている。 

  

私が探偵と言われて真っ先に思いつくのは、犀川創平と中禅寺秋彦であるが、この二人には共通点がある。  

そしてその共通点ゆえに彼らはいわゆる探偵と言われて普通想起するような人格像とは大きく異なっている。  

それは、どちらも事件を解決することに消極的であるという点だ。犀川先生は事件が目の前で起ころうと大して関心を持たないし、京極堂は事件にかかわることをとにかく拒みたがる。   二人の生活ぶりから考えるとそれは当たり前ともいえる。双方ともに、社会で起こっていることに興味を示さず、自分の興味の向く分野にのみ時間を費やし、静かな生活を送っている。とても憧れる生活だ。 そんな私に彼らの気持ちを代弁させてもらえば、それは社会と極力かかわりを持ちたくないというのがとにかく大きい。  

社会についてのヘイトは書いていると余計に厭世観が強くなるので省くが、そもそもこの文章をわざわざ読むような人間には説明するまでもない気がする...、社会の面倒さとはすなわち人間の面倒さである。  

もちろん、私も、そして犀川先生も京極堂も人間関係全般を嫌っているのではない。むしろ、好きな人間とは積極的に関わりを持っていたいと思うだろう。その証拠に、犀川先生は真賀田四季西之園萌絵に関しては執着を見せるし、京極堂も悪態をついてはいるが関口が困っていれば助けるし、彼の著作をすべて読み、なおかつ高い評価までしている。この辺のツンデレ描写は必見である。  

要するに、‘はずれ’の人間とかかわるのが面倒なだけなのだが、殺人事件なんてものは否応なしにそれらと関わらねばなるし、大抵は世界や人間の嫌な面を露骨に見せられることになる。だから、彼らのような静かな生活を好む者が殺人事件なんて面倒なものに積極的に首を突っ込むはずもないのだ。  

幸い私はそういった事件に巻き込まれたことはないが、彼らの気持ちはよくわかる。私が好きな探偵として彼らを挙げるのは、あこがれだけでなく、そうした理由もあるのだろう。  


さて、ここまで二人が似ているかのように述べた。お互いに社会とかかわるのを拒み、それゆえ事件解決に消極的であると。  

しかし、その内実には大きな隔たりがあるように思われる。  

犀川先生が事件に関わりたくないのは、純粋に興味のなさと煩わしさに所以すると思うのだが、京極堂は、事件そのものではなく、事件を解決することで多くの人が傷つき、そしてそれによって彼自身が苦悩することに煩わしさを感じているように思う。*9 

そしてそれについては、京極堂の親友であるところ関口巽と交えて語っていきたい。  

関口巽は元鬱病患者の作家である。京極堂や榎木津といった友人たちのおかげで現在は治ったらしいが、それでも頻繁に鬱状態になって寝込んだり、周囲のことにひどく動揺して口がきけなくなったりする。*10

彼の物語は、『魍魎の匣』においては直接描かれず、語り手に徹しているように一見思われるが、事件に関わることで様々な人間の闇を目の当たりにする度、彼の闇もまた発露する。だから、今作における彼の物語も、まるで魍魎のようにとらえどころのないものとなっている。  

彼は、良くいえば感受性が強く、悪くいえば精神病を引きずっているのだろう。事件の関係者の心理を必要以上にトレースしてしまい、また他人と会話している際に勝手に内省をし勝手に自分を恥じることも多い。それを代表するエピソードとして、以下のようなものがあるのだが、個人的にその場面がとても好きだ。  

彼の今まで書いた作品をまとめ、短編集を出さないかと懇意にしている出版社から打診された彼は、「自分の書いた文章は、私という人間の取り込んだ養分の絞り粕であり、排泄物のようなものであり、それにいまさら手を加えるなど無為に思われるから加筆修正などせずに勝手に出版してくれて構わない」というのだが、編集者から「それでは私は先生の屎尿に触れて感動したことになる」と苦笑される。それを聞いた関口は自分は他人に屎尿をまき散らすだけでなく、あまつさえそれで金を得ていたのかと気づいて赤面し、慌てて前言を撤回して加筆修正する旨を伝えると編集者は「どうしたんだこいつは」とばかりに呆気にとられる。  

この3ページにも及ばない場面は、関口巽という人間を上手く表現していて素晴らしい。何より、相手が全く問題と思ってない自分の発言を一人で勝手に恥ずかしくなって訂正するという状況には私自身何度も出くわしたことがあるので共感できる。  

そんな関口巽だが、連続バラバラ殺人事件の犯人である久保竣公に対して彼が抱く思い入れと、彼自身が久保のように人の不幸を覗きたがる蒐集者となっていく様子に着目したい。  

その前に久保竣公について補足しておこう。  

彼は、箱を作ることにのみ情熱を注ぎ他のことを一切省みない父親と、鬱病の母親のもとに産まれた。そんなわけで彼は育児放棄され、何年も言葉を話さず、母の鬱病が回復した後も言葉を発さないという理由で気味悪がられた。やがて戦争がはじまり、父親が出征すると、何らかの事故で竣公は指を箱に挟まれて失う。母親はそれを見ても半狂乱になるだけで治療もせず、箱がすべていけないのだという結論に達し、箱屋である家を捨てて九州へと逃げる。その途中で母親は首を吊って自殺し、竣公は修験者に拾われて育てられる。  

やがて上京した竣公は父親と再会し、数年ぶりに姿を見せた息子に恐れをなした父親を利用して御筥様という新興宗教を始める。*11  

御筥様を始めた理由については、彼の書いた『蒐集者の庭』という小説にあらわれている。  

その小説の主人公は、伊勢神宮の神官でありながら、他人の懊悩を蒐集することを生きがいとし、人の人生を石塔に封じ込め、それを自分の屋敷の庭に立てる。そして夜な夜な石塔から聞こえる悩み苦しみに耳を傾けるのだが、やがて石塔の数が増え、夥しい慟哭や鳴き声が彼の庭から聞こえてくる。その話を聞きつけた山伏がそんな禍々しいものはこの世のためにならないと言って乗り込み、神官と口論をするのだが、その最中に自分の深い業を吐露した神官は結局自らが石塔になってしまう。しかし、神官の精神の空洞を覗いてしまった山伏はすっかりその暗黒に魅了され、結局神官の<庭>を自らが引き継ぐ。  

久保竣公が御筥様を作ったのは、神官と同じく、他人の不幸を覗くためだった。箱を満たすことに何より執着した彼は、けれど自分自身は空っぽだったのだ。そして彼は匣に入った加菜子に魅入られたことで‛あちら側’に至り、自分も同じく匣に入った少女を作ろうと、連続バラバラ殺人を犯すこととなる。  

そんな彼に、関口巽はどこか愛着を持っていたように思う。初対面では久保に馬鹿にされた態度をとられながらも若い同業者に感心していたし、京極堂久保竣公が連続バラバラ殺人の犯人だと告げた時も、まるで久保をかばうような発言をしていた。共感か、同情のようなものを抱いていると思われるシーンが、ほかにも散見される。*12物語の終盤、美馬坂近代医学研究所において、久保竣公が匣のなかでまだ生きていることが明かされると、既に事件の真相が明らかになるにつれて人の闇を覗き、久保や、そして雨宮のように‛あちら側’に魅了され、そこに至ろうとした関口は、美馬坂父娘の秘密を知りたがる素振りを見せたかと思えば、加菜子が美馬坂の娘だと判明するやいなや美馬坂への興味を失い、まるで父娘の痴話ばなしには興味がないとでもいうように、その後の展開そっちのけで匣に近づき、久保の姿を見ようとする。 結局美馬坂に気付かれて匣を覗くことには失敗し、関口は正気を取り戻すのだが、その際の独白は興味深い。

知らず知らずのうちに、久保と同じ蒐集者となっていたのだ。 他人の心を覗くうちに、その秘密を知る度に。  

犯罪は、社会条件と環境条件と、そして通り物みたいな狂おしい瞬間の心の振幅で成立し、犯罪者は偶然その通り物に出会ってしまっただけだ。動機なんてものは、社会を納得させる後付けに過ぎない。そして裏を返せば、誰だってその通り物に出会ってしまえば犯罪を犯す可能性は十分に存在し、紙一重のところに存在しているという主張は、本作でたびたび主張される。*13

これは何も犯罪に限った話ではない。誰だって、ミイラ取りがミイラになるように、神官の行いを咎めに来た山伏のごとく、蒐集者になる可能性を秘めている。  

人の懊悩を覗きたい、というのは、普遍的な欲求のように思われる。はてそうだったかなと自分自身に照らして考えたとき、ものすごく身近なところにそれは存在していた。 

私は物語が好きだ。昔は、あらすじこそ面白ければそれで良いと思っていたが、最近になって、私は話の筋でなく、そのなかでいかに登場人物が苦悩し、どのように生きていくかという部分こそ、自分が物語に求めているものだと気が付いた。そしてこれは、他人の懊悩を覗くことに快楽を覚える蒐集者に他ならないではないか。私が大量に部屋に集めた物語たちは、人の人生が封じられた石塔そのものだったのだ。  

そして蒐集者である私は関口とともに、京極堂に対して問いを発する。  

なぜお前は、そこまで他人の人生を覗き、秘密に辿り着きながら平気でいられるのかと。  

ようやくここから、京極堂の人間臭さについて語り始めることができる。  

京極堂は、‛あちら側’に落ちることなく、様々な人間の秘密に触れ、事件を解決していく。  

では彼が淡々と、他人の心情を慮ることなく事件の真相を話すかと思えば、そうではない。  

彼は、他人の痛みを想像できる人間だ。元から無愛想な面をしているので傍目からはわかりづらいが、長年の付き合いである関口の視点からは、彼の悲しそうな顔、苦しそうな顔が幾度となく見られる。久保の犯行を生い立ちによる性格の歪みが原因であると関口が言った際には激怒すらした。  

そして今作における彼の人間臭さは、彼の美馬坂幸四郎に対する態度に最も色濃く表れていると私は感じる。   

戦時中に美馬坂と付き合いのあった京極堂は、彼に対して好感を抱いていた。恐らく、理性の権化でありながら、その研究に対する狂気的ともとれる執心の原動力が、不治の病にかかった妻を救おうという思いだという不器用さのようなものに、自分と重なるところを見出していたのではないか。関口も言うとおり、美馬坂幸四郎中禅寺秋彦は似ている。

そんな京極堂には、美馬坂をかばうような言動が多い。彼については、一連の事件には関係がないからと、限界まで関口達には秘密にし、美馬坂近代医学研究所に乗り込んだのも、人死にが出過ぎたから仕方なく、といった感じであった。  

法律で裁けない美馬坂の一見非道に思える行為についても、木場たちがそれに対し非難を浴びせた際には、価値観が異なるだけだとも言った。  

美馬坂が久保に首を噛み千切られて死に、柚木陽子も正気を取り戻し、事件が決着した際の、関口から見た京極堂の描写がとても好きだ。

京極堂は、美馬坂の顔を見ている。
この男は、きっとこう云う役回りが大嫌いなのだろう。所詮、凡ての物語は、この男の物語ではないからだ。
京極堂は、美馬坂をどんな心境で送っているのだろう。
私にはなんとなく解った。京極堂と美馬坂は同じ種類の人間なのだ。美馬坂が、勝手に自分だけ物語に入り込んで、さっさと向こう側に行ってしまったから、この偏屈な友人はきっと少しだけ悔しいのだろう。

この描写に、京極堂が探偵として事件を解決することに消極的な理由が集約されている。 京極堂は、ただ他の人間よりも強いというだけで、‛あちら側’に惹かれることには変わりがないのだ。   エピローグにおける京極堂と関口の会話を引用しよう。

「雨宮は、仮令捕まって監獄に入っても、そこに順応して幸福を手に入れるだろうか。」
彼にとっては法律など効力を持たないのであろう。
「だろうな」
京極堂が云った。
「美馬坂があんなに酷い努力をして得られなかったものを、雨宮はさっさと手に入れてしまった――」
その後の彼の言葉は聞き取り難かった。
しかし京極堂はこう続けたかったのだろう。
――美馬坂は、馬鹿だ、と。

「雨宮は、今も幸せなんだろうか」
「それはそうだろうよ。幸せになることは簡単なことなんだ」
京極堂が遠くを見た。
「人を辞めてしまえばいいのさ」

捻くれた奴だ。ならば、一番幸福から遠いのは君だ。そして、私だ。   

私も似たようなことを思う。 幸せになりたければ、今すぐ本を捨てて、考えることを辞めてしまえば良い、と。

『ハーモニー』のラストがとても好きだ。ちょうど弱っているときにあの圧倒的な幸福を見せつけられたため、立ち直るまで数日を要した。 大体、あれほど自分の意思を尊重し、トァンとキアンのイデオロギーそのものであった御冷ミァハですら、あの幸福に抗えなかったのだ。 それなら、誰だって考えることをやめたいと心のどこかで思うに決まってる。*14  

ただ、私がそうしないのは、それができないのは、心のどこかに、その決断をしたミァハを殺したトァンがいるからだと思う。*15苦悩に溺れる馬鹿よりも、何も考えない馬鹿のほうが明らかにマシだというのはわかっている。 けれど、私はなぜか、本当になぜかわからないのだけど、そうなるのを拒んで、考え続けていればいつか、悟りのようなものが開けて苦悩から解放されるかもしれない、そこまではいかなくとも、どこかで自分なりの落としどころのようなものが見つかるのかもしれないと、根拠のない希望を抱いて馬鹿なりに本を読んだり考え事に耽っている。  

きっと、関口も、京極堂も、似たようなものなのだろう。 私たちは、たしかに‛あちら側’と紙一重だが、それでもこうした生き方を続けている限り、やはり‛あちら側’とは程遠い人間なのだろう。  

物語の最後の、それでも彼岸と現実の狭間にで揺らぐ関口の独白を引用して、このとらえどころのない記事を締めようと思う。  

私は想像する。
遥かな荒涼とした大地をひとり行く男。
男の背負う匣には綺麗な娘が入っている。
男は満ち足りて、どこまでも、どこまでも歩いて行く。
それでも
私は、何だか酷く、――
男が羨ましくなってしまった。

*1:一度目に読んだときは何とも思わなかったが、今読むと中禅寺敦子がめちゃくちゃ可愛い。どことなく西之園萌絵にも似てるような気がする。

*2:もちろん今書いてるこの文章も明日には読むのさえ嫌になっているだろう。そんなものを人様に読ますなという気もするが…

*3:規定枚数が5枚ならば最後の1枚は1行でも良かった

*4:そのせいで、要点を纏めて語るのでなく、ダラダラと些末なことまで書いてしまう癖がついたせいで、今でもあらすじを書くのは苦手となってしまった

*5:頼子のことについて触れようと思っていたが、最後まで書いたところで書くタイミングを逃したのでここに書くが、彼女に関してだけは、京極堂の推理には賛同できない。たしかに彼女は母親と加菜子を同一視していたというのは認めるが、それでも彼女は加菜子のことが本当に好きで、加菜子の言う言葉を純粋に信じていたと私は感じた。

*6:彼についても語ろうと思ったがこれまたタイミングを逃した。とりあえず、この先を読むにあたって、彼がどんな状況にも適応して幸せを見出せる人間であり、久保と同様に、匣に入った加菜子に魅入られて‛あちら側’に至ってしまった人間だということは述べておきたい。

*7:もちろん他にも登場人物はいるけれど、主な物語はここに挙げた彼らのものだと思う

*8:私のような頭の中が絡まった糸くずだらけの人間は、この過程で否応なしにそれを解いて整理しなければならない。そのおかげで、文章を書き終えると自分の頭の中が少し整理されてスッキリする。ただ、この作業は絡まったイヤホンを解くようなものでやってる途中に上手くいかないとストレスが募ることになるけれど。

*9:別に犀川先生に人間味がないとは言ってない。彼のことはとても好きだ。

*10:ところでこの時代うつ病がどれだけ認知されていたのか気になった。最近でこそまあまあ理解を得られるようになったものの、それでもただの甘えだという人間は多い。関口自身は周りの理解がうつ病を治すには何より必要だといっていたが、それを彼がこの時代に得られたのはものすごい幸運なのではないかと思う。

*11:吉良吉影には、幼いころ母親から虐待されていたという裏設定があり、それを止められなかった父親が吉良の手助けをするのだが、お互いに殺人鬼であるという点も踏まえてなんとなく久保竣公吉良吉影を重ねて見てしまう。

*12:1000ページ以上あるので探すのがきつくて断念しました...すいません。

*13:私が読書感想文で書いたと最初のほうに言っていたのもこのことについてだ。

*14:書いてて本当にどうでもいいことに気がついたが、三人とも名前の真ん中に「ア」がつくんだな。キアンだけは小文字ではないので紛らわしい...

*15:最も、彼女は自分がその状態になることではなく、ミァハがそうなることを拒んだのだけど。