透明なクジラ

長すぎてTwitterに書けないこととか。

『素晴らしき日々- 不連続存在- Down the Rabbit Hole story:Aについて。その1

ネタバレ注意



いや、結構張り切ってたんですよ。人生で一番と言ってもいいくらいに。
ただ、読書感想文より長い文章を書いたことがなく、もちろんブログなど人生で初めてだった僕は心が折れました。
たった一本のゲーム、しかもその中でもイントロダクションにあたる序章に絞っても、感想を一つの記事にまとめることがこんなにも難しいなんて……

自分が書いてみるまで知らなかったのですが、世の中ブログとかにたくさん感想や考察の記事載せてる人々がいて、特に意識することなくそれらを時折読んでいたけれど、彼らはとてつもなく高度なことをやっていたんだなぁと。*1


いきなり言い訳から始まりましたが、そんなわけで今日から何回かに分けてすば日々について語っていきたいと思います。


他の各章についても2周目が終わり次第語っていくつもりですが、まずは序章から。


とは言っても初記事ということもあって今回は全体的に前書きみたいな内容になると思います。



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このゲームをクリアしてから、ずっと引っかかっていたんです。


たしかに素晴らしい物語だった。
しかし、第3章のざくろの苦しみは、私たちが正しい選択肢を選ぶ限り、なんら解決されないではないかと。

その先に素晴らしい結末が待っていようと、物語を先に進めるために彼女を犠牲にしなければならないのなら、本当にそれは正しいことなのか。


あまりにも救いようのない彼女の地獄を、物語の構造上の理由で認めてしまうことに、強く拒絶感を抱いていたのです(そして、僕は『素晴らしき日々』がとても好きだったので、そこから目を背けて今まで生きてきた)。*2

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余談ですが、私は救いのない物語が苦手です。
中でも、救いのないままにその人が死んでいく話は特に苦手としています。

できるだけ様々な作品に触れたいと思いつつも、いかにも救いがなさそうな作品は意図的に避けてしまう。


こう言うと勘違いされそうなんですが、私は『ぼくらの』とか『イリヤの空、UFOの夏』とかは大好きですよ。
なぜなら、それらの結末をハッピーエンドだと思っているからです。

その境はどこか。

それは、彼らが満足して死んでいくかどうかです。


幸福なまま死ぬならば、私は登場人物が死ぬことをむしろ奨励するまであります。






これは私の大好きな作家である三秋縋先生の言葉ですが、この意見には特に共感するところがあります。


死の持つ絶対性みたいなものは、幸福をそのまま化石にしてくれると思うんですよね。


例えば2章の希実香ルートで、他のなにもかもがどうでもいい、ただ彼女を抱き締めたいと言った救世主様、そしてそれを受け止めた希実香。
二人が落ちていくその幸福な瞬間が切り取られて化石となり、その後がないからこそ永遠に残り続ける。


あのシナリオが多くの人の印象に強く刻まれるのは、そのような美しさを孕んでいるからだと思います。



一方、これは逆にも当てはまるんですよね。
死の瞬間が苦痛に満ちていれば、有無を言わさずそれが切り取られて化石になってしまう。
生きていても苦痛を感じていたのに、死んだら最後まで苦痛だったという事実だけが残る……


私はそんな残酷な物語に耐える心臓を持っていません。


だから、救いのない物語が私は苦手です。

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しかし、今回2度目に序章をプレイして気がつきました。


彼女の物語の終末は、第3章“Looking-glass Insects”という地獄ではなく、第1章“Down the Rabbit-Hole”という、書き割りのようなチープで、出来損ないの夢の世界、そしてその先の銀河鉄道なのだと。


死してなお愛する人を救おうとするその心意気は、なんて美しいのだろうと。


そして、銀河鉄道の最後での由岐への告白は、こんなにも心揺さぶるものだったのかと。


高島ざくろの物語は、決して救いのない結末を迎えたのではないのだと。
 



前置きが長くなりましたが、私が筆をとったのは、彼女の心意気に対する感動を、誰かに伝えてみたくなったからです。


そのために必要だと思われる、私の序章に対する解釈や感想。
そんなものをこれから何度かに渡って書いていこうと思います。


適当に見守ってくれるとありがたいです。


(なんかもう既にこれ以上付け足しても蛇足になるような気がしてきて不安だけど頑張る……)

 

*1:世の中で簡単そうに見える大抵のことって、やってみたら笑えるほど出来ないんですよね。 僕はそれをゲームセンターCXを通じて度々痛感します。 課長のプレイを見ていて、なんでそんな所で失敗するんだ!とか思ったり、もどかしいプレイが続くとプレイを代わりたくなったり(もちろんそれだけ熱くなれるからクリアした時の喜びは視聴者にとってもひとしおのものであり、それこそがあの番組の魅力なのでしょう)。 でも、スーマリ3を買ってプレイしたとき、一晩中やっても3面をクリアするのがやっとで。 ああ、下手そうに見えるけど実は課長ってゲーム上手いんだなあと。 なんか脱線しましたが、要するに僕が言いたいのは、所謂ほならね理論というものはわりかし的を射たものなのかなってことです。 まあ相手がプロならそれで金を貰っているのでそれに見合う仕事をする必要があるかもしれません。 ただ、それでも何かを批判する前には、相手が行っていることがどれほど難しい事なのかを、体験するとまでは言わなくとも想像することは大切だと思うのです。 まるで関係ない話になってしまった…… 字数が制限されてないと思うとつい本筋から離れたことも色々話したくなってしまうのは今後の課題かもしれないなぁ。

*2:少し前話題になった、『Doki Doki Literature Club』をプレイした時にも似たようなことを感じました。僕は今でも、物語の先を見るために、望んでいたはずの彼女と二人きりの世界を手放し、あまつさえ彼女を殺してしまったことにやりきれなさを感じている。あれは果たして正しい選択だったのか、答えは未だに出ていません。いつか再び向き合わなければ。